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2013年12月2日

父の思い出 荻野鐵人

 父の死に接し、1周忌も終わる頃までは、初めて経験する仏事の数々やら、弔問客の故人への賛辞の洪水やらで、これまで知人、友人、恩人、それ程は近くない血縁の人の死や、医師として患者の死を見守ったときとは全く別の気持ちになる。昔の恨み、つらみ、批判も忘れ、立派に生きた愛しい人のように思えてきてしまう。

 海水浴(当時はこんな風に呼んだ)に連れて行ってやる、とめったに言わないことを言うので、前の日から弟たちと、水着を揃えるやら、浮き輪や水中眼鏡をつけてみるやら、はては畳みの上で水泳の練習をするやら大騒ぎ。当日も日曜日というのに朝も早くから起き、支度も済んで、玄関にそれらをならべ腰掛けて「あと一人患者さんをみてから」というのを待っている。始めのうちは、庭で鬼ごっこやら、かくれんぼやらで、時間のすぎるのも気にならないが、やがてお昼時になり用意した弁当やお菓子を食べるはめになろうものなら騒ぎだす。
 母の「お気の毒なご病人のためなのだから待ってあげて・・」という言い訳も、えい、もう聞きあきた、それならそれで約束をしなければいいじゃないの、こっちだって友達との予定もあったのに、ということになる。それでも午後の4時ごろになって、仏丁面した子供達をオートバイにのせて連れてってくれる。  「こんな時間になって・・、もう今頃から行ったって」という非難の雨にも知らん顔、こっちもこれ以上いうと怒鳴られるのも知っている。
海も夕焼けに染まり陽の沈むのを見ながら、人っ子ひとりいない海で泳ぐ。「俺はここで見ているから」と海岸の土手に背広姿のまま腰掛けてこっちを見るでもなく、何かを考えている。「ふん、泳げないからなんだ」、スポーツ好きで一緒に遊んでくれる父親を持ちたかったと恨みながら、溺れたってどうせ助けてなんかくれないんだから」と思いつつ浅瀬で寂しくカニでも探している。仕事の鬼はしょせん子供には無縁なのだ。どんな立派な仕事であっても。

 医学生となり父の仕事が分かるようになったが、高名な放射線医や内視鏡家を連れてきて早期胃癌を発見して喜ぶ姿も、その行動力、実行力にはたいしたものだと思いつつも、その自慢げが鼻につく。「著名な文学者が褒めてくれた」という、徹夜の連続で書き上げた小説や詩の労作も素直に読む気がしない。えらそうなことを書いたって・・それがなんなんだ、とひねくれる。今はじめて読んでみてよくもここまでと思うのに。あの時もっと熱心に読んでお世辞のひとつもいってやれる広い心になぜならなかったのか。どんなにか喜んだであろうに。

 晩年になってゴルフを一緒にやるようになり、小児麻痺で不自由な足に合った独特なフォームで、ひたすら努力する姿には素直にほめてあげることができた。こっちより飛ぶし、アプローチも良いのだから。私も三人のこどもを育て、父と子供の心も分かってきたし、哀れにも老いた父にこれ以上批判はできなかった。また実際父も私を愛していると表現するようになった。

 私が40才、父が70才にもなろうとする頃、NHKで放送されたボブ・トスキーのゴルフのレッスンにいたく共鳴し、一人きりでフロリダまで訪ねて行ったのには驚いた。あらかじめコンタクトを取ったわけでもなく、NHKに教わった住所だけが頼りで1週間の付きっきりのレッスンを受けてきたのだ。その頃のトスキーはといえば、トム・カイトやベン・クレンショウらの師匠として知られ、素人などは相手にしないプロ相手のレッスンプロだった。これまで父の生きざまを心からは称えることができなかったのに、その若々しい心意気にはうたれた。
 事がゴルフだったことと、老年期の父と壮年期の自分だったからこそ素直に手が叩けたのだろう。父の生涯を貫いた心意気にはなんと若々しさがあったのか。

 たくましい意思、豊かな想像力、炎える情熱、人生の深い泉の清新さ、怯儒を退ける勇気、安易を振り捨てる冒険心、驚異に魅かれる心、幼な児の様な未知への探求心、人生への興味の歓喜、これこそ私たちに教えて逝ったのだと思う。

 父の死にざまもまた “die in harness” だった。武士が鎧をきて戦場での死を望むように、満身創痍で、刀も折れ、矢も尽きて死んでいった。常日頃、私に言っていたのは、尊厳死では無く、例えそれが神との戦いであっても、自然科学の士としては、これに医学という武器で最後まで抵抗し死んでいくことだった。「俺がどんなに苦痛のあまり殺してくれと叫ぶようなことがあっても、命を縮めるような麻薬は使ってくれるな、病気がそう叫ばせているだけなのだから」と。

 末期には足に糖尿病と動脈硬化からバージャー型の壊死ができ、真っ黒になった脛骨を削ったりする時でも音をあげなかった。糖尿病性腎症で透析を受けていること、高齢である事、はては棺桶に足がなく入れたのではあの世でゴルフができないのではというやさしい孫の意見もあったが、足の切断の手術の意思を固めてから、発熱などにより手術不能となる日までは短かった。
 予期した通り、DICがはじまり文字どおり全身から血を吹き出しながら死んでいった。81才の肉体を借りた20才の青年の壮絶な戦死だった。


  • 共立荻野病院             院長 荻野鐵人
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