2013年12月3日
技術大国日本の数学の父 カルロ・スピノラ 荻野鐵人
私たち日本人が世界を旅行する時,欧米でも、いや少し控え目に言ってアジア諸国では、技術を売る国の人として少しは肩で風を切って歩くことが出来る。日本人には祖先から受け継いだ何か特別な資質があるように思いがちだが、これはある一人のヨーロッパ人のお蔭によるところが大きいのだ。それなのに私たちの祖先は、この大恩人を火あぶりにしてしまった。
このことが知られていないのも無理はない。記録がほとんどない。あるのは、イタリアに残された宣教師の手紙と、我国の古いお寺に保存された和算書だけなのである。キリシタン迫害の時代にすべてが抹殺され、その墓さえないので、以下に記すことは、これらからの推量にすぎない。
明治維新を迎えたとき、西洋の学問・技術の輸入、国内制度の整備のために、多数の「お雇い外国人」を宮内庁や学校などで雇った。しかし数学だけはその必要がなかった。だからこそ、欧米の技術のすばやい吸収に成功した。ではなぜ数学のレベルがそれほど高かったのか。
これまで、この疑問に対してそろばんを使う天才的な江戸時代の和算家たちが中国の数学書を頼りに我が国独自の文化を培ってきたと考えられてきた。そして西洋の影響としか考えられない一種のバター臭さに対しては「ヨーロッパから中国を経て」などと説明されてきた。
しかし実は、この和算家達に手をとって教えたイタリア人宣教師がいた。その人の名はカルロ・スピノラである.
著名な政治家、軍人、枢機卿を含む多数の高位聖職者を生むイタリアのジェノヴァの4大名家に生まれ、貴族の騎士になるための研鑚を積んでいた18歳のCarlo Spinolaは1583年インドでイエズス会のパードレが4人の同僚と共に殉教したことを知り,東洋布教に従事して殉教の栄冠をかちえたいという青年らしい清らかな情熱から1584年12月、一族の反対を押し切ってイエズス会に入会し死にもの狂いで修練に励んだ。
しかしその無理がたたって3年後に喀血し転地療養のためミラノへ行く途中、ローマでクラヴイウスの下で3年間数学を学んだ。このことがスピノラと日本の運命を変えることになった。
クラヴィウスは有名な天文数学者で若くしてCollegio Romanoの教授になり,東洋に派遣する宣教師のために、数学・天文の特別教育を行なっていた。日本に布教に行った宣教師からの手紙に、「諸国から身分ある大名たちが都に上ると,公方さまにならってパアドレの教えを聞く者もあり、科学とくに数学や天文のことに好奇心を示し、地球儀や地図を用いた地理、さらに羅針盤の示す方角に進む航海術や天体観測儀を使った星の観測などには感動し、仏僧(ボンゾ)の無知を笑うものもあった」とあったからである。
当時イタリアでは,「アラビア数学」を輸入した「ヨーロッパ数学」がはじまっていて、正多角形による円周率の計算が盛んだった。1596年にはルドルフ・ファン・コーレンは6×233角形の周を計算して、円周率を21桁計算したと言う。
30歳で司祭になるまで、ミラノで神学のかたわら数学を教えていたスピノラは「日本に布教に行け」と言う神の声を聞いた思いで船に乗るためリスボンに入った。スピノラ家はなんとか思い止まらせようと総長に嘆願書を出すなど様々な手段をこうじた。しかし2年後にはこれを振り切って乗ったインド行きの船の舵が大破してブラジルへ流され、修理してヨーロッパへ帰る途中、英国の海賊の襲撃を受け全員が英国へ連行され、1年6か月の旅で振りだしのリスボンへ戻らざるを得なかった。
1599年3月末、再びリスボンを出帆したが船中で同僚4人を含む17人を死に追いやったペストに苦しめられた。1600年の初頭にインドのゴアに到着したものの2か月間の闘病生活を強いられようやく回復して11月上旬にマカオに着いた。マカオでは約1年半程の船待ちをしついに長崎にたどりついたのは1602年7月であるから、日本への渡航の初志の貫徹にまるまる6年を費やしたことになる。
都(ミヤコ)の伝道地区には下京(シモギョウ)、上京(カミギョウ)、大坂の3つのレジデンシャがあったが、慶長8年(1603)の末スピノラは下京へ派遣された。
慶長8年(1603)に家康が将軍になり一時禁教の命令を弛めた布教黙認時代から慶長18年(1613)に厳しい命令が出された禁教・迫害時代までの間隙を突いてスピノラが布教活動をすることが出来たのはむしろ幸運だった。
スピノラはいわば布教の「えさ」として天文学に関する機械を見せたりサイフォンの原理を応用した揚水器具を作って人々を驚かせたりしていたが、そろばんを片手にした25歳ぐらいから30代半ぽの十数人の優秀な和算家たちに接するに及んでむしろ副業たる数学を教えることに没頭していった。慶長16年(1611)までの8年間に京都のAcademiaでスピノラに手をとって教わった和算家たちは,その著作から推測すれぽ,『割算(わりざん)書(しよ)』の毛利重能(しげよし)、塵劫記(じんこうき)』の吉田(角倉)素庵と吉田光由(みつよし),『新編諸算記』の百川忠兵衛,『新刊算法起』の田原仁右衛門嘉明,『算元記』の藤岡茂元、それに『算用記』の名前が分からない著者たちであり、誰かが書いたスピノラの講義のノートを勉強させてもらった者は,『竪亥録(じゆがいろく)』の今村知商(ともあき)、『円方四巻記』の初坂重春,『格致算書』の柴村盛之、『改算記』の山田正重、『算法閾疑書』の礒村吉徳らであろう。
毛利重能(しげよし)の『割算書(わりざんしよ)』は,著者と発行年がはっきりしている最古の数学書で元和8年(1622)に刊行されたが、その序文には次のように記されている。
「夫割算と云は,寿天屋辺連(しゆてやへれん)と云所に智恵万徳を備はれる名木有。此木は百味之含霊の菓、一生一切人間の初、夫婦二人有故、是を其時二に割初より此方、割算と云事有」
「寿天屋辺連」とはジュデアのべレンすなわちJudea Belemを指す。ベレンはベツレヘムBeth1ehemのポルトガル語形である。そしてこの物語はアダムとイヴの話だろう。
毛利重能(しげよし)の弟子で,京都の豪商,朱印船貿易の角倉一族でもある吉田光由(みつよし)の歴代のベストセラー寛永8年版『塵劫記』の跋文には、「我稀に或師につきて汝思の書を受けて、是を服飾とし領袖として、其一二を得たり。其師に聴ける所のものを書き集めて十八巻と成して、其一二三を上中下として、我に疎かなる人の初門として伝へり」と自筆で署名してある。「汝思」は新安の程大位の字名で、「書」とは1592年刊行の中国の算盤算法書『算法統宗』を示す。しかし『算法統宗』の影響は全く発見できないから、これはカモフラージュで「或師」とはスピノラを指すのではないか?
スピノラは京都を去る日、同僚イタリア人宣教師で中国に赴いていたマテオ・リッチが南京から長崎のCollegioに送り届けていた『算法統宗(さんぽうとうそう)』を形見としてまだ14歳の天才児光由に贈ったのだろう。光由の祖父宗運が李朱医学の大成者で、1584年南蛮寺で洗礼を受けた日本医学中興の祖と言われる養安院曲直瀬道三の弟子であるから、光由もキリシタンであったことは想像に難くない。
和算家たちはその著作にスピノラから教わったと思われる問題を載せている。『塵劫記』にある、けし粒の問題は、一粒、二粒、四粒、八粒のように日々倍して百二十日目の粒数をまず計算すると三十六桁の数になる。これを立方に開いて余りを出し、その余りをまた立方に開いて余りを出している。開立の計算は寛永18年に出版された百川忠兵衛の『新編諸算記』にもあり、開立定積之法として1~9、10~90、100~900の立方根の計算がある。
これは一升の桝(ます)と相似な一合桝、二合桝などの辺を計算する問題に使われている。その説明によると、
実= (10a+b)2乗
ここでaを初商とし、bを次商とする。aは2桁でも3桁でもよい。この式を展開すると、
実=100a2乗+20ab+b2乗
となる。次商bは次のように求めることが出来る。
b=実-100a2乗/(20a+b)
ここでbは20aに比較するとはるかに小さいから捨てて、
b=実-100a2乗/20a
として次商bを求めることが出来る。
開立のときも同様である。
実=(10a+b)3乗
実=1000a3乗+300a2乗b+300ab2乗+b3乗
故にb=実-1000a3乗/(300a2乗+300ab+b2乗)
b=実-1000a3乗/300a2乗
西洋ではこの方法をニュートンの近似計算と呼んでいるがスピノラが来日したころはニュートンは生まれていなかった。非常な数学的才能の持ち主のスピノラがこの方法を発見して教えたのだろう。
佐渡奉行所の記録・佐渡年代記、佐渡国略記には百川治兵衛は切支丹の嫌疑で牢に入れられ棄教して名を忠兵衛と改めて出牢したことが記されている。
百川忠兵衛の『新編諸算記』には「金百弐拾弐匁壱分八リン八毛七ほつ五」とある。15歳で来日した宣教師ロドリゲス著『日本文典』(1604年長崎Collegio出版)には「mi(微)xi(糸)、fot(忽)、mo(毛)、rin(厘)、fun(分)、momme(匁)」、「一厘の百分の一にあたる一忽はIchifot(イチホッ)と言って、Ippot(イッポッ)とは言わない」とある。中国本来の少数は匁・分・厘・毛・糸・忽・微であるから、糸と忽が入れ替わっている。忽の漢音はコッkotである。これを訛ってfotとしたか。中国人の発音をロドリゲスが聞き誤ったか。ロドリゲスの『日本文典』をもとに数学の講義をしたスピノラが、ほつ(fot)と発音し、百川忠兵衛がそれを聞いたと考えて間違いあるまい。
『塵劫記(じんこうき)』、『算元記』にある「油分け算」の問題は、「油一斗を五升づつ二人で分けるとき、三升桝と七升桝しかないときどうしたら良いか」である。西洋の著書にこの問題があるが、日本と中国にはない。スピノラから伝えられたものであろう。
『塵劫記』、今村知商(ともあき)の『竪亥録(じゆがいろく)』、田原仁右衛門嘉明の『新刊算法起』には「切籠の問題」がある。切籠とは外囲に薄い紙を張って中に明(あか)りを入れてお盆のとき仏壇を飾る芸術品である。この切籠に入る米の量を測る問題をスピノラから聞いたとき、日本人和算家たちの開いた口はふさがらなかったに違いない。
元和4年(1618)にスピノラは捕らえられて大村鈴田の牢に入れられた。弟子たちは急いで著書を印刷して、生来虚弱で永くは生きられそうもない恩師に見て頂こうとしたのだろう。最も優秀だった弟子は名前を伏せて『算用記』を出版した。毛利重能(しげよし)の『割算書』も急いで出版したためか終りの方には不完全な所が多い。しかも3回も板を彫り直している。板の摩滅具合などから見て千冊以上は出版されたと推定される。和算の最初の本にこれだけの需要があるとは思えない。
スピノラが殉教して10年目に当たる年に『塵劫記』が、また『割算書』も再版されている。すでに『塵劫記』は何度も再版され、『割算書』も市場価値はなく、学習用にも役立たなくなっていた。
殉教後20年目の年には『新編諸算記』と小型の『塵劫記』が出版された。これらの出版はそれぞれ師を慕っての10年、20年の記念出版と考えられる。
その後は莫大な費用のかかる出版のかわりに自分の選んだ問題にその解答をつけたものを板に書き、これを額にした算額を神社や寺に奉納して大勢の人に見てもらう、わが国独自の研究発表の手段も取られた。
また、遊歴算家といわれる人たちが旅先で数学好きの人々を集めては講義をしたり個別指導をしたりした。逗留はその家の主人の好意に頼るし、別れる時は謝礼を受けるので生活は成り立つし、請われれば免許状を与えたり師弟の関係を結んだりした。どこの村でも名主や数学好きの家での臨時の数学塾は歓迎されたようだ。
学力のある有名な先生に教えてもらいたい、自宅に呼ぶには費用がかかる、塾に行くには遠すぎる、こうして日本の各地を遊歴して数学を教え、普及に貢献した人たちの活動により、江戸や京都、大坂で盛んになった日本の数学に関する新しい知識が全国に伝わった。とくに江戸から遠く離れた奥州、中国、四国、九州の各地方で庶民、とくに農民に数学が普及していった。それも「そろばん」を使って行なう日用数学からはかけ離れたレベルの高い学問としての数学の普及は当時一流の数学者の遊歴活動に負うところが大であった。
こうして寛政から文政の末年まで(1789~1829)の40年間、農民も町人も異様と思われるほど数学に心を引かれた。直線や三角形、四角形、円、楕円などの接触関係の図形の研究はほとんど頂点に達したと言える。当時の人口二、三千万のうち、残された算額からの推定ではあるが、数万の人々が朝な夕な鍬を手にし荷を肩にして数学の考えに耽った。これは世界文化史上に例を見ないことである。スピノラの教えがこうして継承されたのである。
スピノラはおろか吉田光由ら和算家たちの墓はない。キリシタン故である。それならば、神社に詣で、掲げられた「算額」を見つける機会があったなら、この数学を日本にもたらした大恩人スピノラに感謝の気持と、火刑にしてしまった罪をわびて手を合わせようではないか。
荻野鐵人
参考文献
平山諦:和算の誕生,恒星社厚生閣1993.
宮崎賢太郎:カルロ・スピノラの都・長崎よりの三書簡。純心女子短大紀要、21, 1985
ティエゴ・パチェコ著、佐久間正訳:鈴田の囚人カルロ・スピノラの書翰。1967