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2013年12月6日

自動車 荻野彰久

 「往診料は幾らでも出すと言うのに何故来てくれん !」と深夜酔漢が怒鳴って来て玄関のガラスを割った。
 そんな事があって以来、私の体の弱いのを理由に、夜中の往診は嫌うようになり、稀に出かける事があっても妻や看護婦に当り散らす事がよくあった。
 それから四、五日過ぎた或夜、往診から疲れ果てて帰った私は、何んとはなしに多少不機嫌になって茶の間に坐って居た。
 「豊川じゃ今度、また新車を入れたそうよ」妻は斯んな事を言った。私は今しがた診て来た患者のことを考えて黙って妻の言葉を聞き流して居た。
 「あなた、往診に自動車をお買いになっては ?」妻は急須に湯をさし乍ら言った。
 仲間の多くが、自動車で往診して居るのを内心咥え指で眺めて居た私には、妻のこの言葉は朗報に違いなかった。然し、家中で何だ彼だと一番の浪費者は自分なので、纏った自動車ということになると私は多少妻に気兼があった。
 「だって、キミ、高いんだろう?」
 「お兄さんの乗って居たような車でいいんでしょう?」と妻は意味ありげに微笑した。
自動車と聞いて、跳りあがる心を制しながら私は、さも不服相に妻の顔をもう一度見返して黙って居た。
 「あのね―ほんとはね―」と何か勿体ぶるように話した妻によると、豊川では今度新車を入れるから、その旧い車を廻わしてやってもいいと勧めてくれたそうだ。
 「向うで折角そう言って呉れるのなら断わるのも悪いが、キミ、大丈夫?」
 「だって、あなた、雨降りや冬の往診はお困りでせう?」
 「大した事はないさ、従来もやって来たんだから」とは言ったものの、私は夜中の往診に出かける度に妻や看護婦に当り散らす自分にうしろめたさを感ぜずには居られなかった。
 「だって、あなた、いま時、あなたのように自転車なんかで往診しているお医者さん、ありませんわよ」と肩身が狭いと云うように、口をゆがめて言った。世間に対して肩身が狭いのではなく豊川の義姉たちに対してだろうと私は邪推したくなるのだった。
 「うん、それもそうだね、じゃア、今から豊川のその車をちょっと見て来ようか」と、私は損のないように妻に同調した。
 「―でも、斯んな夜分では、よく解らないでしょう、それに義姉たちに如何にも車が欲しくて堪らない見たいで、変よ」と妻は今度は困ったようにセーターの袖口を弄り乍ら言った。
 私は時計を眺めた。九時を少し過ぎていた。
 「キミ、話は出たときに、はっきり決めたがいいよ」と豊川の旧い車が独りで逃げ洩すかのように私は言張って立ち上った。
 「あなたは何んでもさあと言えばさあですからねエ」と笑い乍ら妻も立ち上った。
 私はその儘、玄関の三和土(たたき)に下り立って、下駄箱から散歩に出掛ける時のように、ステッキを出した。そのとき下駄箱の上に置いてある籠に黄襟インコの居ないのにびっくりした。また逃げたかと中を覗き込んだ。枝からおりて二羽、体をすり寄せて凝つとして居る。熱帯の鳥は寒い所ではえらいのだろうか。
 「オーイ、未だか!」私は奥へ声をかけた。妻は鏡台の前から勝手におりて行ってガスのコックを改めて居たらしく
 「―では子供と火をお願いします」と留守居番のものに斯んな事を云い乍ら、走るように出て来た。
 澄んだ十一月の星空に月が出ていた。十五夜だろうか。冷たい風が時どき吹いて木の葉をはいていた。
 往来へ出ると、格好の小型車が、私に誇示するように砂塵を残して走って行った。
 電車で豊川へ行った。みんなは映画に出掛けて留守だった。私は裏庭に置いてあるらしい問題の車を見に行きたいと妻に眼顔で知らせた。妻は、茶を運んで来た女中の方を眼で示しながら不可と云うように白眼で合図した。私は縛られたように黙って坐って居た。
 三十分程待って居るとみんなが還って来た。向うは新車を入れて、中古車は私の方に廻わす話は既についていた。妻と兄との話の中にそれが感ぜられた。(曲りなりにも俺にも自動車と名のつく物があることになるな)と少年のような喜びが湧くのを感じた。
 私は学生時代に小型免許を取って居たのを幸に、其儘乗って来てしまった。途中後ろの客席に腰掛けていた妻は「ちょっとそこまで試運転と云って、其儘家へ乗って来てしまったですわねエ」と云って笑った。
 「これじや、まるで泥棒だね」と私も笑った。
自家に戻ったら、寝て居る筈の子供達が眼を醒して飛び出して来た。往還に置かれた車を見て「ウハア、自動車買ったの?」と三年の男の児が叫んで、車のそこら辺を撫で廻した。
 「コラ! 大きな声、するじゃあない! 」私は近所に気兼するように云った。
 「お父ちゃま、自動車の運転、出来るの?」と茶目気に男の児が云った。
 「お父ちやまは何んでも出来るわねエ」と、下の女の児は私に、味方して云った。
 二人の子供は又車のボデーに手を拡げて撫でて居た。
 「みんな、あまり車に触っちゃあ、いかんよ、損(いた)むといけないからね」と、既に所々塗りの剥げたボッコ車を、さも新車のように私は子供達に云って聞かせた「それに近所はお休みだからね」
 「さあ、さあ、もう晩いですからねエ」と妻は子供達を連れて家の中に這入り、私は車の外部や内部の塵を払ったり、解りもしないエンジソを覗いたりして居た。ボンネットをキチンと閉めて私は満足げに大きな息を吐いた。月の光を受けて乱反射する車の屋根には、風に誘われて木の葉が落ちて来た。私は莫座(ござ)を持ち出して来て車の上から掛けてやった。
 私が家の中に這入ろうとしたとき、静かな月下の路を、向うから、火がついたように泣く子供を負ぶった女が足早に下駄の音をさせ乍ら走って来た。
 あとで知った事だが、この農婦は、子供が湯たんぼで火傷をしたので、小児科で且つ外科をやって居る医者を訊ねて居たのであった。其の農婦は、私の顔の前で立ち停ると、「ちょっとお頼みしたいだが、この辺には、ソトカとコニカはないかのん?」とひどく慌てた調子で訊ねた。
 「ソトカとコニカ?さあ、それはどんなものだね?」
私は首を傾げて聞き返えした。
 母親の背中の子供は、泣き続けて居た。
 「ソトカとコニカは何に使うものだね」と私はいらだたしげに訊ねた。
 「湯たんぽの栓がぬけて、この児が足に火傷をしたもんで」と農婦は背中の子供の方へ手を廻し乍ら答えた。
 「あはア、何だ、外科(ソトカ)と小児科(コニカ)か!」と私はいまにも噴き出すところだった。
 あとで妻にその話をしたら、妻も腹をかかえんばかり笑っていた。「ソトカとコニカねエ」と云って又笑った。
 火傷患児の手当を済ませて、私が茶の間にいったときには、子供達はもう寝て居た。家の中が急に静かになった。裏庭の虫の音が部屋の中でのように聞えた。今宵の自動車を思うと、近来にない愉しい事に思われた。
 「さあ、今夜から往診があっても断わるなよ」と夜中の往診には滅多に出た事もない私は、妻と二人の間の単調を破るように、調子に乗って斯んな事を言った。事実自分は、今夜は深夜でも、往診があれば、試運転がてら、出掛けてもいいと考えた。
 「余計な事をしたと言って叱られるかと思って居ましたけれど、あなたにそんなに喜んで頂けて嬉しいわ」と妻は火鉢の箸を動かし乍ら云った。
 「うん、自動車さえあれば気拙い思いをしながら、往診を断わらなくても済むでな」と妻の英断に感謝するように云った。
 「じゃあ、わたしもあなたにいい事をしたのでしょうかしら」と妻ははにかむように言った。
 「さあ、どこか遠い所から往診でも掛って来ないかな」私は車を動かしたいばっかりに斯んな事を考えていた。
 「自動車も宜しいですけど此頃のように事故が多いと心配の種を買ったみたいで、わたし可怖いわ」と苦労性の妻は又始めて居た。
 上の空で妻の言葉を聞き流して居た私には少年時代の自転車乗り始めの愉しい追憶までが甦って来るのだった。
 普段ならば、其日に診た重症患者について多少くよくよする自分なのだが今夜の私は一人の重症患者も受持って居ないかのように透明な気分に浸って居た。そんな気分の中で自動車だけがガラス瓶の中の金魚のように、自由に泳いでいた。
 「さあ、もう寝ようか」私は口を洗ぎに立った。床の中に這入ってからも、妙に寝つかれなかった。いつだったか患家先で、T市のK医師と対診をする事になっていた。対診が済んで患家の人々が最敬礼で見送る中を、ピカピカの自動車に乗って帰えるKの姿は如何にも立派だった。真夏のストーヴのように、用のない私も、引揚げる事にした。Kの自動車が吐き出す煤煙の申を、油が切れてキーキーいう自転車で帰る自分の姿と、自動車で先に行くKの姿とが思い較べられた。
―斯んな事が思い出された。
 「まアあなた、美しいこと、月の光で梅の枝が窓のカーテンに」妻が突然云った。
 「十五夜でしょうかしら。軟かい静かな光ですわね」妻と私との間には斯んな会話が流れていた。
 丁度そこへ期待が嘘のように実現した。電話のベルが鳴った。往診の依頼である。妻が起きて行った。お蔭で自動車が乗れるかと思うと私の心は、船を迎えた港のように、急に活気づいた。
 「はい、梅藪の春田さんでございますね……」
 (断っちゃ、いかんぞ、今夜は往くんだから)と私は床の中から小声で妻の方へ云った。
 「急に子供さんが痙攣(ひきつ)けたのでございますね、それはいけませんね、……はい、意識が戻りませんで……」
 寝床の中でこれを聴いて居た私は、妻の例の落ちついた調子が、もどかしく思われ自分で起きて行った。妻の手から電話を取りあげた。患家先は、短気で言葉使いの荒い漁村だった。一里半の距離である。
 「すぐ来てくれるのん!」電話の相手は、容態の悪い急病人を抱えて、急(せ)いているらしく何度も念を押した。
 「今夜は自動車だから、すぐだ」と私は「今夜」と「すぐ」のところにアクセントをつけて答えた。
 傍に立っていた妻は、私の顔を見て
 (自動車に乗りたいばかりにすぐ承知なすったのね)と悪戯っぼく微笑した。
 私は鞄をさげて玄関を出た。往還通りに置いてある自動車の屋根から茣蓙を払って、妻が眺めて居る前を、運転台に腰をおろした。前面のウインドには、冷えた水蒸気が凍り付いて曇っていた。ポケットからハンカチを取り出して窓を拭いた。さえざえとした月光は、あたりを静寂にしていた。車のエンジンをかければ、爆音を近所に気兼せねばならぬ静けさだった。
 ―と、家の申で電話のベルが聞えた、妻が這入ったかと思う間もなく出て来た。運転台の傍に来て、言った
 「今の往診の催促ですわ、もう出てくれましたかって !」
 私は、エンジンスイッチを入れて、セルボタンを押した。
ところが私は、今夜程、機械文明に不信を抱いた時はなかった。自動車のエンジンがどうしても掛らないのだ。一時間前まで、なんともなく、乗って来た車が、いざという大事な時に、云う事を聞かないのだから業が湧く。
 私はエンジンのある蓋を開けてみたり閉めて見たり、プラーグをさわって見たり、配線コードを、いじってみたりしていた。手もYシヤツも、油で真黒になったのは、いいとしても、いくらセルボタンを押してもエンジンが掛らない。そんな筈はないと、又、やって見るのだが、意故地になった人間のように、矢張りだめだ。斯んな時、誰かに車を後から強く押してもらえば、掛ることがある。私は運転台に乗ったまま、妻に後から押させた。妻の力位では押して掛る筈はない。妻は肩で押してみたり、両手で押してみたりしていた。
車は一センチも動かなかった。
 「もっと強く押せんのか」車に腹を立てた私は、妻に無理難題をふっかけていた。必死になって押している妻の荒い息が、運転台の私にも聞えた。
 家の中で、また電話のベルが鳴った。妻が聞いて来て
 「あなた、どうしましよう?」と困った表情で云った。三回目の往診の催促である。容態が悪いのだから、待つ方でも腹が立つ道理で、乱暴な言葉使いだったそうだが、その時の妻はそんなことは言わなかった。
 電話で聞いた患者の容態は大体私には、察しがつくので、それだけに私は気がもめてならなかった。月の光で、時計の文字を読んだ。一時半を過ぎていた。自転車ならば、もうとうに往診を済ませて帰る時間である。
 (まごまごしていると、患者は死んでしまうぞ)と思うと何かに追い詰められている感じだ。自分が着く前に患者が死んだら、自分の責任だと思った。
 看護婦たちが起きて来た。皆で車を後から押しているのに、急に起こすと寝ぼける癖のある見習の槽谷は、美しい月夜に何故自分は、斯んな事になったのかと云うように、ぽかんと口を開いて無表情に立っていた。
 「皆で一緒に強く押すんだ。一度に押すんだ。いいか、ほれ、一、二、三!」私は運転台に坐り、外で押すみんなは、フウフウ云っていた。
 だめだ。矢張り車は掛らなかった。本当に腹の立つ自動車だ。大きな石でも拾って来て、グアンと投げてやりたい位に腹が立つ。牧童に引かれまいとする巨大な黒い牛のように思われた。
 私は車からおりて、蓋を開けてエンジンをにらむ気持で眺めた。静かに黙っている面がにくいではないか。又、蓋を閉めた。クランクでやってみた。息苦しい自分を感じた。眼の前に居る人間が馬鹿であるために自動車がかからないかのように、妙に妻に当り散らした。寒いでしょうと、妻が上衣を持って来て私に着せようとした。私は「いい!」と子供のように膨れ面で拗ねた。死にそうな患者、自動車の故障、疲労などから、そのときの私は実際そうせずには居られなかった。
 「今夜の往診は一体誰が受けたんだ!」
 「わたくしが、電話へ出て、あなたが出たじやありませんか」
 「お前が先に電話へ出るからいけないだ!」
 「だって !」
 「だってもとってもあるか !」
 「今夜の往診は、貴様往け !」
 「わたくしは、お医者さんじやありませわ」
 「あってもなくても往け !」
 「――」
 次の瞬間私は妻が泣き出すものと思った。私はちょっと顔をあげた。私の顔に出会した妻は、突然、噴き出してしまった。釣り込まれて私も笑った。妻のこの突然の笑いが却って私の張り詰めた気持を楽にした。流石の私もこれ以上、無茶は云えなかった。
 「いいか、ずうっと押して行くんだ。一二三と言ったら、力いっぱい、一気に押すんだ。その時、車は急に重くなるが、そこが山だ。山をグット押すんだ」
 自動車はかかった。私は其儘、出発にした。籠った癇癪も車の爆音と共に消えていった。気分が急に明るくなった。
 いまごろ、自家では、みんなが、(ヤレヤレ、狂犬が出て往ったわい)と私のことを笑って居るだろうと思うと、私もお可笑かった。
 往診の三回目の催促があってから、もう可成りの時間か経っていた。私は急がねばならぬと思った。小型ポロ車のスピードは、私を焦立たせた。
 患者の其後の容態を私は、いろいろに空想した。悪い方へ悪い方へと私の空想は吸込まれていった。医者としての常識的な責任感が私を不安にした。私は空想の果てまで追求した。「自動車に戯れて「医者、急患を殺す」

 私は夢中になって車を走らせた。前芝の裏街道で、車のヘットライトは、医者仲聞のMが往診の帰りらしく、自転車で私と反対方向から、やって来るのを映し出した。(俺がこれから診に往く春田を既に診察しての帰りか?)商売仇と想定された彼を、無視するように、傍を慌ただしく走り過ぎた。
 梅藪に着いた。お宮の石垣が直角に廻わる森影に私は車を停めた。春田の家は、ここから曲りくねった細い道を歩くのである。
私は鞄を提げて車からおりた。学識経験に富んでいて、而も背が高く、充分肥満した堂々たる躰躯の、神秘的な老大家に、自分を擬(なぞ)らえて、多勢の家人が持ち受けている光景を予想しながら、私は静かな月下の道を、自信ありげに緩(ゆっく)り緩りと患家へ大股に歩いて行った。
 殊に明るく照明された家口へ這入った私は、五六人の男女が忙しげに動いて居るのを見た。
 「病入はこちらですか?」
 患家の誰もが私に、冷淡な態度を示す如く黙って居た。不快を感じながら私は、三和土から、自分を迎え入れる人を捜すように、奥の間の方へ眼を移した。
 ――と、女たちの泣声が聞えるではないか。私はギクリとした。不吉な予感。医者を待った患児の生命は、既に消えていた。思い上った私の諧謔心は、氷水を掛けられた感じだった。罪入のように私は春田の家を出た。
 「月にカーテンのような白い雲がかかっている―」
 うなだれて歩いて来ると、春田の隣りの農婦が云った。
 「親戚がみな、M先生に診てもらえばいいと勧めたけんど、あの児の母ちゃんだけが先生がいいって、待っていたにのう」私の耳元まで近づいて話した農婦の特殊な匂いが、いつまでも私の内部で尾を引いていた。悪友のように私を待っている自動車の、向きを換える時の騒音が、連子のように私の肩身を狭くした。
 「行きはよいよい、帰りは何んとか」私の気分は、初めの出掛けて来る時とは、ひどく相違していた。
 私はもう急いで帰える必要はないと思った。人命を助けるという来る時の、私の稚い優越感は、帰える時には、一種の卑屈感に変っていた。
 「死んだのは運命さ、自分が早く往ったって助からなかったのだろう」と私は斯う思い返えしてみたが、私の心は巻かれていくゼンマイのようにだんだん縮んでいった。
 「斯んな気分で家庭へ帰ってはいけない」
 「白墨の跡の黒板を一度拭くのだ」
 暢気な気分になって、月夜の田園風景でも眺めてやろうとまた思い直して、海の見える浜田橋の上に車を停めた。月光を受けた白い波は、岸辺に繋がれた漁船を叱るように、舳先を叩いていた。
 「何をしに自分はここに来たのだ、呪われた自動車で」
 呪われた恋入を駈って私はまた動いて行った。展けた自然の風景を眺めるのに、人工的なヘッドライトは妨げとなった。深夜の田舎の街道は人も車も通らなかった。私はヘッドライトをしばらく消した。展けた野面は幻想的な月光を浴びて眠っていた。広い田圃の稲はすべて刈り取られて、秋の風景を蓼しいものにしていた。円形に堆(うずたか)く積まれた稲束は、蒼い月光を受けて古代砂漠の墳墓のように遠くに眺められた。
ああ、美しい風景だ、と私は思った。
 「自転車で往けばよかった!」自転車のM医とすれちがった平井の前まで来ると、悔恨が墨汁のように私の心に拡がった。月は傾いて、影は長く伸びていた。
 「さあ、帰って寝よう」
熱情的希望に導かれて家を出た少年が、失意の果てに、ふるさとを希うように私は家路へ急いだ。
 色褪せた門燈の光は、月光に押されて、またたいていた。
 「今宵の事は妻には話すまい」
 沈んだ気持の私は玄関をそおっと開けた。妻は出て来なかった。鞄を投げるように上り板間に置いた。居眠りから急に醒めたらしく、びっくりしたような表情で妻が出て来た。
いそいそと私のオーバーを脱がせた。
 「自動車でいらしても遅かったわね」妻は居眠りを弁解するように明るく微笑した。妻のこの時の明るい微笑は、私の今の気分にはそぐわなかった。外で我儘が通らなかった子供のように、私は急に妻に、拗ねたい気分に被われた。黙って私は立って洗面所へ行った。妻は後からついて来た。妻が捻(ひね)った水道の蛇ロから水の流れ出る騒音が私の気分を更にいらだたせた。私は黙ったまま急いで手を洗って、妻が未だ其処に居るのに来てしまった。走るように妻はうるさくついて来た。私が坐る傍へ妻も坐った。
 「わたしが寝ていたので怒っていらっしゃるのね」
何も知らない妻はこびるように言って微笑した。
 「春田さんの子供、もう死んでいたんだぞオ!」
 「まア―」出鼻をくじかれた妻の顔色や表情が急に変った。
 (罪なき妻を、自分は、何故責めているのか)
 自動車を欲しがったのは実は私だった。浮き浮きと調子に乗っていたのは私だった、すぐ往くと確約したのはこの私だった。車の故障に腹を立てたのも私だった。
 「自動車が、いけなかったのね……」
 妻はそこにあった暮しの手帖を痩せた指で、ぺらぺらとめくっていた。
 寒い冬の夜など、遠い往診から帰へると、体が冷え切っていつまでもいつまでも寝つかれない私を、妻は、湯たんぽに着せてあった寝巻を私に掛け乍ら、お体が弱いから中古の自動車でもあるといいんでせうがと気の毒がっていた。そんなことが思い出された。
 しかし、私の心は、堪え難きまでに醗酵していた。私は乱暴にも、妻の気にさわるような事を云ってしまった。
 「自転車で、よかったんだ ! 豊川なんか行かなければよかったんだ !」
 妻は背を見せて泣き出した。
 (私が、他人を不幸に導いた反射が、その部屋の中を支配している)
 涙の蒸溜がおこっている妻の後姿を私は眺めていた。過ぎた日の、セーラー服で明るく笑う女学生の悌が、妻の後に、浮んでいた。ああ、過ぎた日の……。

 これは十五年前の或る秋の夜の出来事である。今日、休日の午後、医者仲間の花田君が「西浦へ夜釣りに行かないか」と自家用を持って誘ってくれた。私は助手席にいれてもらった。西へ向って走っていた車の前窓には、タ陽が射し込んで眩しかった。私は斜陽を避けるように、ハンドルの上に眼を逸した―と其処に自分が写っているバックミラーを見た。
自分の醜い顔と、白墨の粉を冠ったような頭髪が写っているのを見て、私は、ちょっと、うろたえた。車は前芝から梅藪へと走っていた。私は瞑想するように眼を閉じていた。過誤だらけの私の過去も、現在では美化されて、幻燈に映し出された絵巻のように、思い返えされた。それからも私は度々、梅藪へ往診に往く。此処だ此処だと私はいつも心に小さい影を感ずる。誰かに話すか、何かに書くかすれば私の気持もさっぱりすると思って、ここに書いてみた。

荻野彰久(1956,2,3)



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