2013年12月16日
露寇(ろこう)事件始末(1-1) 荻野鐵人
1 若宮丸(わかみやまる)出帆
一艘の船が出て行く。
時は、寛政五年(1793年)11月27日(陽暦12月29日)の明け六つ。まだ薄暗い。船は八百石積み、一本帆柱で柱の高さは八十二尺(約28メートル)、一枚帆で帆の大きさは二十四反の若宮丸である。
寛永十二年(1635年)には米五百石(約75トン)以上を積める大船は建造を禁止されていたが荷船に限って許されており、このころは千石以上の大船が沿岸航路についていた。
場所は、仙台藩領石巻(いしのまき)港である。この港は、初代仙台藩主伊達政宗が川村孫兵衛に着手させた北上川改修工事が寛永三年(1626年)成功裡に竣工し、大量の仙台領の藩米が石巻から海路江戸へ輸送されるようになったことと、川船が南部藩の藩庁盛岡をも結ぶことになったことで、南部米の集結地をもかねた東北一の海港に変貌していた。
普通、伊達六十二万石というが、これは仙台藩表高(おもてだか)をいい、実際の内高(うちだか)は百万石を優に超えていたという。
この藩財政の死活をも握っていた仙北平野の仙台米の積み出しこそが、他ならぬ石巻であった。もともと東北地方はわが国有数の米産地であるが、仙台米はとくに江戸市場とのつながりが大きかった。
仙台藩では専売による買米(かいまい)制度を行い藩内の米を独占して、年貢以外にも領民から得た米を石巻港から江戸深川にある伊達藩の蔵屋敷へ廻送し売りさばいて利益をあげ、それによって藩財政をうるおす仕組みをとっていた。
当時金一両は七石四斗であったが、仙台藩は江戸廻米によって五万両にものぼる利益をあげており、その収入は全収入の四割にも及んでいて、藩にとってもその財政の軸であった。
若宮丸は、江戸への往復はこれまで何度もしていたが、沖船頭(おきせんどう)の平兵衛はいつも同じ時間に、鐘を合図に船を出す。
三十一歳の若さで若宮丸をまかされるのは、平兵衛が船主米沢屋平之丞の息子であるからばかりではない。何事にもきっちりしていて、米、材木を積むのにも、船のバランスには事のほかやかましく、米はどこに、材木はどこにどれだけと、積む量と積む場所を指図し、積み荷が航海中にも動かないように固定させ、ほかの船のように、どこでも良いから積めるだけ積んで儲けようなどとは決して言わなかった。
積み荷は仙台蔵米二千三百三十二俵、御用木と雑小間木(ざつこまぎ)四百本でもあり、その扱いには、声を荒げることもあった。
船頭の身分は普通、百姓扱いで、苗字を持つ者はほとんどなかったが、平兵衛の父は、船問屋で苗字帯刀が許されていた。
平兵衛は、そんな家に生れた。
あくせくしたところがない割には数量にはうるさかったが、水主(かこ)たちには人望が厚かった。
時化(しけ)を乗り切るときの采配も、経験の割には、沈着で冷静、適確な指示は、十五人の水夫たちに多大な安心感を与えていた。
ただ惜しいことには、たたきあげの船乗りとは違って、やせていて体が弱い。いまだに波が荒いと船酔いする始末である。