2013年12月17日
露寇(ろこう)事件始末(1-2) 荻野鐵人
元禄時代以降、貨幣経済への移行が進み、商品流通の最前衛の役割を担った廻船乗りたちは、遠隔地間を往来する稼業が幕藩体制の封建制に拘束されない強みもあって、多様な見聞にもめぐまれ、社会的な広い視野をもち、普通は文盲の人間がほとんどであった漁民に比べ、知的水準が一般にずっと勝っていた。
とりわけ、江戸との間を往還する、一流商船団でもあった石巻廻船などの場合には、船頭や船方三役(楫取(かじとり)・賄(まかない)・親父)はいうまでもなく、たとえ一介の水主(かこ)であっても、識字能力を持つ者が多かったが、この若宮丸のような仙台藩蔵米(くらまい)船では、とくに粒ぞろいの船員たちであった。
平兵衛たちは、石巻港を発つ時、伊勢白子の大黒谷光太夫ら三名の神昌丸の漂民の蝦夷(えぞ)地根室への帰国を知っていた。
すでに去年の寛政四年、水主(かこ)の左平が、江戸深川の仙台藩屋敷で噂を耳にしていた。
石巻と蝦夷地間の廻船の往来は繁しかったから、光太夫らの消息はすぐに石巻に達し、その情報を得て石巻を発った蔵米廻送の石巻船が江戸への早飛脚の役を果たしたのである。
北方の海への漂流は、石巻廻船の場合、他人事ではなかった。遭難して海原の果てに消え、二度と戻らなかった仲間たちも、過去に数多くあったからである。
江戸時代に漂流が多かったのは次の理由による。
1 鎖国時代の規制により外洋を航海する船、航洋船(構造船)の建造が禁じられており、内国のまわりの海をかけまわる構造のものしか許されていなかった。
マストは必ず一本、帆は一枚たるべきこと、大きさは千石を超えざること(結局は千七、八百石まで黙認されるようになったが)という具合の禁止令がある為に、航海には常に無理が伴った。当時の沿岸航行用の和船は暴風に遭うと、すぐ舵が折れて帆柱が倒され航行の自由を失った。その上、海に浮かんでいる隻数がおびただしく、航海の頻度も高く、積荷もつねに積み過ぎだったために、海難がしばしば起こった。
2 江戸期の社会における貧富の差は、中国・インドなど他のアジアにくらべてはるかに少なく、比較的に、貴族は富むこと薄く、庶民は富を手に入れる上で多くの機会をもっていた。
それを一層可能にしたのは、初期を過ぎてから精妙になりかつ全国を一つの経済圏に仕上げた商品経済の高まりである。北は蝦夷地から南は種子島まであらゆる商品を乗せた商船が巡航し、とくに大坂と江戸の間は江戸中期までは日本海まわりの航路を主に、さらに中期以後は太平洋まわりの航路が発達し、七、八百石から千石までの廻船がすきまもなく往復していた。
3 秋の収穫物たる米その他を輸送する和船は、冬期に珍しくない北西季節風の暴風に襲われると、遠く太平洋へ吹き流されることが多かった。
カムチャッカ付近は低気圧の墓場であって、日本近海で吹きとばされた漂流船のなかには黒潮に乗って北上し、カムチャッカやアレウト列島(アリューシャン列島)・千島列島に漂着して、ロシア人によって救助される場合があった。
しかし、救助されなければ、原住民に殺されたり、もし殺害をまぬがれたとしても、帰還する手段がなかった。加えて、冬期の厳しい自然条件を考えれば、生き残れる可能性も少なかった。