2013年12月18日
露寇(ろこう)事件始末(1-3) 荻野鐵人
ロシア人に出会った最初の日本人漂流者は、大坂の谷町の質屋「万九」の若旦那で、商売の修業のために他家に奉公していた伝兵衛といわれる。彼は、犬公方の名で知られる五代将軍綱吉の治世下の元禄八年(1695)の十一月頃、大坂商人の廻船の上乗役(船荷監督役)として乗船し、大坂を出帆して江戸へ向かった。
伝兵衛の乗った船の乗組員は十五名で、積荷は、米、酒、緞子(どんす)、木綿、砂糖、壇材、鉄などであった。
途中暴風に遇って、紀州沖か遠州沖で遭難し、西風によって東方へ28週間流されたのち、カムチャッカ南部に漂着し、原住民たちの俘慮(ふりょ)になっているところを、1697年から99年にかけてカムチャッカ探険を企てた「カムチャッカの征服者」の異名をとるコサック隊長ウラディーミル・アトゥラーソフによって1698年に救出された。
アトゥラーソフのカムチャッカ探検の模様を、ヤクーツクの役所と、モスクワのシベリア庁に報告した二つの記録は「アトゥラーソフの第一物語」と「アトゥラーソフの第二物語」といわれているが、これが広く知られるようになったのは、ずっと後年のことで、1891年(明治二十四)に、ロシアの歴史家オグロブリンが、「アトゥラーソフのカムチャッカ発見に関する二つの『物語』」という論文を発表したことによる。
コサックのウラディーミル・アトゥラーソフが、二回の報告の中で、伝兵衛との出会いについて語った部分は次ぎのようである。
第一物語(1700年6月3日、於ヤクーツク)
彼、ウラディーミルは、カムチャダル人(カムチャッカの原住民)たちから、ナナ河畔のカムチャダル人のところに一人のロシア人らしい囚人がいる話を聞いた。
ウラディーミルは、その囚人を連れて来いと命令した。
カムチャダル人は主人の厳格さに恐れをなして囚人を連れてきた。
その囚人は、ウザカ(大坂)国の者であった。彼らはウザカからエンドに向かって、十二隻の帆船で航行していた。
或る帆船は食料を、或るものは酒やさまざまな陶器を積んでいた。
或る帆船(伝兵衛が乗組んでいた廻船)はマストが折れ大洋に押し出され、六ヵ月間漂流し、十二名が漂着した。
クリルの住民がそのうち三名を捕まえた。しかし残りの者は岬のわきを帆船に乗って進んでいった。
しかし彼らがどこにひそんでいるのか、この男は言わなかった。
クリル人のところで暮らしていた二人の仲間は、食物に不慣れで死んだ。クリル人たちは腐敗した肉と、ダイコン・ニンジン・ゴボウなどの根菜類で生活していた。
かのエンド人はウラディーミルとその仲間がロシア人であると聞いて喜んだ。
この男は自分流の文字を知っていた。役所の書記であったと言い、エンドの文字で書いた一冊の本を差し出した。ウラディーミルは、この本をヤクーツクに持ってきた。
ウラディーミルはその男を連れてきてイチャ河畔のコサラク陣地の家来たちのところにおいてきた。