2013年12月19日
露寇(ろこう)事件始末(1-4) 荻野鐵人
第二物語(1701年2月10日、於モスクワ)
帆船に乗って漂流したこの囚人の話す言葉を自分は知らない。
この囚人はギリシャ人のように見え、やせていて、口ひげは大きくない。髪は黒い。
ロシア人たちのもとで神像を見て、大そう泣いて、自分の国にもこうした神像があると言った。
この囚人はロシア人たちとロシア語で話すこともあった。というのは、ウラディーミルと二年間一緒に暮らしたからである。
しかしコリャーク(コリャーク人は北カムチャッカの原住民)語の通訳を介して話した。なぜなら、ウラディーミルと一緒に暮らす前に異民族のところで二年間暮らしていたからである。
彼はエンド人と自称した。彼によると、その国では黄金が沢山産出し、陶器で出来た宮殿があり、エンドの王(江戸の将軍)は銀の宮殿と金色に輝く宮殿を持っている。
ウラディーミルはクリル土民から囚人の持っていた銀貨をとりあげたが、それはゾロトニク(4.26グラム)の重さがあった。この囚人は「これはエンドの鋳貨だ」と言った。
この囚人は木綿で縫い付けた色々な緞子の着物を着ていた。
この囚人はウラディーミルと一緒に雪靴を履いて、アナドゥイルの冬期陣地から六日間走った。足が腫れて、病気となった。そこでアナドゥイルの冬期陣地に連れ戻した。回復すれば、直ちにロシア人たちと一緒にヤクーツクに出発するであろう。
囚人は、非常に礼儀作法が正しく、分別がある。
文中にみえるクリル人とは、アイヌのことである。千島列島は火山列島で、煙をあげている活火山が数多くある。ロシア語で「煙を出す」という動詞をクリーチと言い、千島列島にやってきたロシア人たちは、噴煙をあげている山々を眺めた。そして「煙を出している島々」の意味で、クリル列島と名付けた。
千島列島の先住民族がアイヌであったことは、その地名からも分かる。得撫島のウルップは、アイヌ語の紅鱒、捉択島のエトロフは、海月(くらげ)という言葉である。
この伝兵衛の物語で、特に金・銀のことがロシア人の関心をひいたことはいうまでもない。伝兵衛の船は商品を金貨・銀貨と交換するため江戸に赴いたこと、金銀の貨幣は都と江戸の二ヵ所で製造されること、また日本人は金・銀・銅・鉄などの偶像を崇拝し、中国人に金銀を売り渡すこと、殿堂や神社は鉄・銅・金・銀などでおおい、皇帝・長老の家、最高の神殿は金張りで造営されること、食器には銀器・銅器、磁器があることが、伝兵衛から聞き出された。また日本の貨幣について、ウバン(大判)という大型の金貨、コヴァーヌイ(小判)という金貨があること、日本には金銀が豊富にあり、クリルの地で原住民は伝兵衛の一行から小型金貨を二箱、重さにして約ニプード(約33キロ)のものを取り上げたという。
1702年(元禄十五年)には伝兵衛は、ピョートル大帝(Petr Ⅰ 1672~1725)に謁見した。
オランダの造船所で働いたこともあり、オランダが独占している対日貿易や、オランダの東インド会社にも注目していたピョートル大帝は、伝兵衛に大変な関心を示した。
1702年、ピョートル大帝はヨーロッパ文化のロシア移入を命じる勅令を発するが、同時に日本に関する勅令もだした。
一つは、伝兵衛をペテルブルグの砲兵庁に移し、ロシア語の読み書きを覚えさせ、習得が進んだならば、四、五名のロシア人に日本語を教えるようにせよと命令を下したのである。
伝兵衛が、「ロシアにおける日本語学校の教師」という称号を与えられ、ペテルブルグに設けられた日本語学校で日本語を教えるようになったのは、1705年のことであった。
そして日本に関する勅令のもう一つは、北方住民をロシア国籍に編入して毛皮税をかけるとともに、日本へ至る道を調査し、日本の商品、日本人のロシア商品に対する需要情報を収集せよというものであった。
伝兵衛は1710年(宝永七年)に帰国を嘆願したが、ロシア人はまだ日本への道を知らないので日本へ送還することができないと断られたと言う。しかし、ロシアからオランダに送ってやれば、日蘭貿易の線で、伝兵衛の帰国の道は開けたかも知れない。ピョートル大帝は、伝兵衛の願いを聞き入れず、ギリシャ正教の洗礼を受けるように命じた。これは、ロシァ人になれということを意味した。洗礼名はガブリエルと名付けられたという。