2013年12月20日
露寇(ろこう)事件始末(1-5) 荻野鐵人
第二の漂流民は、伝兵衛の漂着があってから僅か四年後の1710年に同じくカムチャッカ東海岸に漂着したサニマ(三右衛門(さんえもん)?)で、サニマは紀州廻船で大坂からの帰帆中、紀州半島で、冬期の北西低気圧、俗にいう大西風に吹き放された。
これは太平洋領域での典型的な漂流パターンである。
サニマはカムチャッカ代官チリコフが指揮した五十名の兵隊に救出された。
1711年4月にカムチャッカ・コサックが提出したピョートル大帝あての嘆願書には次ぎのように書かれている。
「1710年(4月)カムチャッカの猟虎(らっこ)海(東海岸側の海)のカリギル湾で、日本の住民十名が小舟で漂着した。その小舟はカリギル湾で陸に突き当たって壊れた。
土民たち(カムチャダル人)はすきをねらって襲い4名を殺し、6名を捕虜にした。
このうちの2名はカムチャダル城市に住むうち、ロシア語をわずかに話せるようになった。
彼らは自国をエド(江戸)と呼んでいる。
その国の近くに、お互いに遠く離れていない6つの都会がある。
彼らの国は、カムチャッカ岬の向いのペンジン海(オホーツク海)の島にある。
そこでは金、銀が産出し、緞子、木綿ができる。その他の彼らの国の産物、またわが国の商品で彼らの国の人に有用なものはどんなものかについては、ロシア語が不慣れで言うことができない。
1713年にコサックの首領コズイレフスキーが53名の部下を率いて千島列島を探検した際、サニマはこの遠征隊に加わり、捕虜にした小さな皮舟で捉択(エトロフ)島から千島列島の第二島ポロムシルまで来たアイヌのシタノイの通訳をしたという記録がある。
サニマはカムチャッカから蝦夷地へ至るルートを知り、誇大な日本情報を語り、コサックに千島列島遠征をさらに推し進ませ、これに便乗して故国に帰る希望を抱いたのかも知れない。
サニマもまたピョートル大帝の命令で1715年頃にペテルブルグへ送られることになり、途中のヤクーックで洗礼を受けイワンと改名した。
シベリア研究の開拓者の一人で、ウラル・アルタイ言語学の先駆者でもあるスウェーデン人のストラーレンベルグが、当時シベリアの行政の中心地だったトボリスクでモスクワに向かう途中のサニマと会っている。
ストラーレンベルグは、その著書『ヨーロッパの北部、東部とアジア』に次ぎのように記している。
「…私は、彼がトボリスクを通過するところで出会った。私が通訳に、『日本ではカムチャッカをイェゾ(蝦夷)と呼んでいるのですか?』と質問させたところ、『そうです』と答える程度にはロシア語を解していた」
そしてこのサニマの返答は、ヨーロッパの地理学会に重大な混乱を招いた。サニマの発言を信じたストラーレンベルグは、『ヨーロッパの北部、東部とアジア』に付した「大タタリア地図」において、カムチャッカ半島の箇はわざわざ「カムチャッカ、別名イェゾ」と注記し、カムチャッカの南端部を北海道の襟裳岬あたりまで南のほうに下ろし、その図を作成してしまった。
以後ヨーロッパでは、この「大タタリア地図」を模倣した地図が盛んに出回ったのである。
サニマは、ペテルブルグでは伝兵衛の助手として日本語教師を勤めた。サニマと伝兵衛は仲が悪かったという。
サニマは伝兵衛の死後1734年まで日本語を教え続けた。