2013年12月21日
露寇(ろこう)事件始末(1-6) 荻野鐵人
第三の漂流は、1729年(享保十四)6月8日、カムチャッカの南端部の東海岸ロバトカ岬近くに漂着した薩摩廻船で、藩米を大坂の市場に運ぶ薩摩藩の御用船であった。
半年余に及ぶ漂船状態を続けながら、乗組員全員が無事だったのは、往路の遭難が幸いし、大量の米を積込んでおり、食糧の欠乏をきたさなかったことによる。
17名が乗っていたが、その地方に居合わせたコサック五十人長シュティンニコフ(後に死刑)の殺害から免れたのはソウザ(宗蔵あるいは宗左、ロシア名、クジマ・シュルッ、36歳)とゴンザ(権左衛門、ロシア名、デミアン・ポモルッェフ、11歳)であり、ゴンザの父はこの船の船頭で息子に航海術を教えようと連れて来たのだった。
彼らの遭難の模様については、二人の生活の面倒まで親身になって世話してくれた、ペテルブルグの科学アカデミーの司書補だったアンドレイ・ボグダーノブの記録がある。
「この船は、ファヤイキマル(他の草稿では、ワカシワマル、若潮丸?) と呼ばれ、薩摩町から出帆したものである。米、絹織物、紫(し)檀(たん)、書きもの用紙、その他のものを積んでアザカ町(大坂〉へ向かっていた。初めは順調に大洋に向って進んだが、それから、激しい悪天候に八日間苦しみ、大海におし流され、どこがどこやら判らなくなってしまった。
風の吹くままに11月8日から6月7日までの6ヵ月8日間、海上を漂流した。
この間、凡ての品物、道具、錨(いかり)を放り出し、マストを切り倒さなければならなかった。舵は嵐で壊された。そこで舵(かじ)の代りに長い板を船尾にとりつけた。
この悲惨な状況下にあって、みんなは神々、とくに海神たちに助けを求めて祈りつづけた。しかし祈っても大して役にたたなかった。
ついにクリルのロバトカ岬付近のカムチャッカ海岸に漂着した。
そこで彼らは5露里(1露里は約1キロ)くらいのところで、残りの錨を降ろして碇泊した。
そして必要なものを海岸に運搬し、17名全員が上陸した。
テントを張って23日間静養した。カムチャッカの住民は一人も見うけられなかった。その間、彼らの親船は悪天候によって吹き流されてしまった。
その後、コサックの五十人隊長アンドレイ・シュティンニコフは、カムチャダル人たちとともに彼らを見つけた。日本人たちは、言葉は判らなかったが人間を見て喜んだ。日本人たちは彼らにあらゆる愛想のよい素振りを示しはじめ、衣服や、また持っていたものを贈りはじめた。そこで相手側も親しげな態度を示した。しかしそれは表面だけのことだった。