2013年12月22日
露寇(ろこう)事件始末(1-7) 荻野鐵人
シュティンニコフは宿営から10サージェン(1サージェンは2.13メートル)のところにまる二日間とどまっていた。ついに彼らは夜のうちに日本人たちのところから姿を消した。日本人たちは大いに残念がった。
翌日、日本人たちは住むに適当な所を探しに小舟で出かけ、海岸沿いに三十露里ほど行って、流失した親船を見つけた。
日本人たちは、既にシュティンニコフがカムチャダル人たちと共に鉄の物資を掠奪するために船を破壊してしまったのも知らずに、どんどん進んで行った。
その様子を見ていたシュティンニコフはカムチャダル人に、『彼らを引き捕らえて殺せ』と命令した。
日本人たちは追いかけてくる軽舟を見て、自分らの破滅をさとり、初めは、お辞儀をして機嫌をとりはじめた。
しかし、相手は愛好を示す代りに矢を放ってきた。海に落ちこむ者もあり、槍で刺される者もあり、日本人が恭順のしるしとしてシュティンニコフに贈った刀(複数)で切りつけられ、海中に投げすてられた者もあった。
生き残ったのはソウザとゴンザの二人だけだった。
シュティンニコフは小舟を入手して、舟の中のありとあらゆるものを横領した。
鉄を取るために親船は焼いてしまった。
そして分捕り品を持って上城市(ウェルフニイ・オストログ)に行った。
彼は蛮行で獲た分捕り品で下級役人(ザカスチク)を買収し、勝手気ままに振舞っていた。
しかし、半年ほどして事件を耳にしたヤクーツクの上級役人(プリカスチク)は、シュティンニコフの許から日本人を連れてくるように命令した。賄賂を受けとった下級役人は日本人の目の前で厳重に罰せられ、シュティンニコフは投獄された。
上級役人から上司に報告され、日本人は航海士ヤコブ・ゲンスのもとで官費で養われた。
分遣隊長パヴルツキー少佐の命令で日本人は1731年にヤクーツクに送られた。
ヤクーツクで約5週間官費で過ごした後、知事の命令でトボリスクに送られた。
トボリスクではゆきとどいた世話を受け、4週間たって、出迎えの特使に伴われ、モスクワに送られた。
彼らは、1733年に首都ペテルベルグに送られ、侍従のウシャコフ将軍邸に厄介になった。
1734年、女帝アンナ・イヴァーノヴナAnna Ivanovnaは二人を迎賓館に招き、漂流の次第を尋ねた。
伝兵衛・サニマの死後閉鎖の状態にあった日本語学校は、ここにソウザ、ゴンザの二人の日本語教師の誕生を見て、1736年には科学アカデミーの中に再び開校の機運を迎えるに至ったのである。
ゴンザは1739年12月15日、二十一歳で死んだが、その短い生涯の中で、世界最初の露日辞典を始め、六冊の著作を残した。ゴンザの聡明さはロシア人が賞讃して止まなかったと伝えられる。
ゴンザの日本語は薩摩弁であることはいうまでもない。
『日本語会話入門』の日本語の部分は、音声を表わすのに都合のよいロシア文字で綴られ、しかもアクセント符号がついており、十八世紀初めの薩摩方言を知るには貴重な本だが、ゴンザ自身の言葉は、「ヨカコト ナロチャ スクナカ ワルカコタ スヨ」で、この意味を、「良い事を習う人は多くなく、悪い事は凡ての人が習う」、とゴンザはロシア文で説明している。
ゴンザの言語学的功績は、大黒屋光太夫のロシア民俗学的功績に匹敵する。