2013年12月23日
露寇(ろこう)事件始末(1-8) 荻野鐵人
第4の漂流は、延享元年(1744)十一月二十八日、下北半島の佐井港を出帆し、江戸に向かった南部船多賀丸(竹内徳兵衛所有、千三百石積み、乗組員17名)が、1745年5月16日、千島列島の第五島オンネコタン島ウカモル湾に漂着した一件である。
ロシア漂到者の消息を始めて日本側に伝えたのが、この多賀丸の漂流者たちであったが、直接にそれを伝えたのではなかった。多賀丸の漂民は望郷の思いを抱きながら、異邦の地で没したのである。
寛政四年にアダム・ラックスマン(Adam K. Laksman 1766~1803)が大黒屋光太夫を連れて来日した時、同行して通訳にあたったイワン・フイリッポウィチ・トラペズニコフは多賀丸漂民の長助の息子だった。
オンコタン島漂着後、漂民の中で優秀で頭のよい5人を選抜して、ペテルブルグへ送るようにとの政府の指示があった。ゴンザの死によって衰微した日本語学校に、新たな5人の日本人教師を送り込み、その再興を図ろうとしたわけである。しかし、天才青年ゴンザの跡を引継ぐには、水夫稼業の身としては、5人束になっても、荷が重すぎた。
1754年にはペテルブルグの日本語学校が、バイカル湖のほとりにあるイルクーックの航海学校の建物の中に移されると、ペテルブルグからは3名の漂流民(2名は死亡)がイルクーックへ送られた。そして、1761年にシベリアの残留させられた4名の漂流民(1名は死亡)が、これに合流し、かくして7名の多賀丸の乗組員がイルクーックに集まり日本語教育に従事し、学生15人を算えていた。