2013年12月24日
露寇(ろこう)事件始末(1-9) 荻野鐵人
その後も漂流民は後を絶たなかったが、中でも有名なのは、天明二年(1782)十二月十三日に紀伊家の廻米五百石、ならびに江戸の商店へ積み送る木綿・薬種・紙・膳椀などを載せて出帆した伊勢亀山領白子村の百姓彦兵衛の持船で大黒屋光太夫の乗る神昌丸である。
この船が遭難し、陸地を発見する様子を帰国した光太夫自身が語ったことによると、次ぎのようであった。
西風に帆を挙げて、夜半駿河沖に至ったが、急にしけ模様となり、北風が吹き起こり、それに西北の風がぶつかり、二つの風が揉み合ううちに次第に波浪が高くなり、船は転覆するばかりになった。
一同の者、髻(もとどり)をきって船魂に供え、日ごろ念ずる神仏に祈誓をこめて命かぎりに祈ったが、暴風は吹きつのるばかりであった。
たちまちにして舵を折られてしまい、ついに最後の手立てとして帆柱を切り捨て、上荷を投げ捨てて辛うじてその場を切り抜けた。
そのあと7~8日の間、風浪のまにまに東北の方向にただよいながれて全く陸地の影を見失った。
年が改まって二月に入り、彼岸のころには風も南にかわり海上も穏やかになったので、舵桿を帆柱代わりに仕立て、衣類をとじ合わせて、帆の代わりにした。
そのうちに井伊家から托されていた畳表を見出して帆にかけ走り続けた。そのうちに、また、碇を二挺まで浪にさらわれた。船のあちらこちらが破損し、何処からともなく垢水がしみこんで船底には二尺あまりもたまった。一同大いに驚き、必死にたまり水をくみ出すとともに浸水の箇所をやっとのことで捜しあて、まきはだをつめて不測の危難を免れた。
米は十分積んであるから食糧は足りたが、二月末ころから飲料水が不足してきた。光太夫は水桶に錠前をおろし、自ら鍵を腰につけてその日々の水の使用量をきびしく制限したが、遂にそれも飲み尽くしてしまった。
一両日ののち、渇きにたえられず海水を飲んでなおさら苦しい思いを重ねたが、幸いにも夜に入って降雨があったので、あらゆる工夫をこらし臨機の水槽をつくって雨水をためた。
すでに暦は五月に入ったのに、雪が降り寒さ厳しく綿入れを取り出して着る有様でいよいよ心細い限りであった。
七月十九日夕方、船親父の三五郎が海上に昆布を見つけ、陸地に近いぞと叫んだので、一同大いに勇み悦んだ。
七月二十日の夜明けに、やぐらに上がった小市が寅卯(東北)の方角にハッキリと島影を発見した。
土を踏んだのは8ヵ月ぶりであったが、一本の木さえ生えないわびしい小島であった。この島はアレウト列島の西端に近いアムチトカという小島であった。