2013年12月25日
露寇(ろこう)事件始末(1-10) 荻野鐵人
光太夫等の一行を見つけて、島民(エスキモー系の先住民族のアリュート人)が2、30人余り現れた。おかっぱ風の髪でひげは短く、色は赤黒く、着物は鳥の羽をとじ合わせて膝がかくれるほどに長く着ているが、はだしのままであった。
一向に言葉が通じないが、光太夫が銭を四~五枚出すと受け取るし、木綿を与えると、さも嬉しそうであった。
島民は袖をひいて、ついて来いというしぐさをするので同行すると、半里ほど行って山の峠にかかると原住民とは全く違った立派な体格で、緋ラシャの服を着け鳥銃を持った二人のロシア人が出てきて、いきなり空砲を発射したので皆肝をつぶした。
しかし、近づくとすぐさま彼らは皆の肩をさすって親切にいたわってくれる様子なので言葉は通じないが、やっと安心して二人について行った。海岸にはラシャやビロードの服をつけた多勢の者がいずれも鎗・鉄砲を持っていた。
これから一同は、ニビジモフの家に引き取られてアムチトカ島4ヵ年の生活を始めたのである。
このように日本人漂流民がロシアの皇帝の命令で次第に厚遇されていったのである。
この厚遇は何故か?
それはシベリアにおける飢えと渇(かつ)えが関係していたのである。
ブレジネフ時代のソ連でも共産党の序列で買える毛皮帽の格がきまっていたが、ロシアにおいて毛皮は特別の意味を持っていた。
毛皮の取り引きはロシアが中心であり、レニングラードは、ロンドン、ライプッィッヒ、オスロ、ニューヨーク、モントリオールという世界の主要毛皮取引地のトップを占める。
毛皮の中で最も珍重されていたのは黒貂(くろてん)である。ロシアでも欧米でも貴族しか着用を許されなかったという場合が多く、ロシアでは黒貂の帽子の高さが位によって決められるということがあった。
シベリアという大地は、ながいあいだロシアにとって毛皮を採集するためにのみ存在した。とくにそこに多く棲んでいた黒貂の毛皮はパリの市場に出せば、当時のロシアの産業水準の低さからみれば、標(ふる)えるほどの高価な値段で売れるのである。
シベリアの森林に駈けまわっている黒貂は、それが獲りつくされるまで、走る宝石ともいうべきものだった。帝政時代、この「宝石」こそ帝国に外貨をかせがせるもとだった。またその外貨によってペテルブルグの繁栄や西方からの技術導入という費用も賄われた。
ロシアが、モスクワを中心にロシア人による国家、ロマノフ朝という専制皇帝を戴く王朝を成立させたのは、人類の他の文明圏よりもはるかに遅れた17世紀のはじめで、日本でいえば江戸初期の大坂落城の直前である。
人類の文明史からみて極めて若い歴史を持っているこのロシアの勢力がシベリアの東端に達するのは1648年で、地球の陸地の大きな部分を占めるこの大空間が、鉄砲と大砲を持った多くの冒険的なコサック集団によって、信じがたいほどの短い歴史時間で征服されたのである。
もしパリの貴婦人たちが黒貂に見向きもしないとしたら、ロシアのシベリア領有はよほど遅れていたにちがいない。
伝兵衛を救出したウラディーミル・アトゥラーソフが、カムチャッカの征服を命ぜられ、出発したのは1695年8月で、征服が成功したことがモスクワに報告されたのは1701年であった。
ロシアはシベリアからカムチャッカにいたるまで、要所々々に兵を駐屯させ、官吏を置き、毛皮商人や毛皮とりの労働者のための町をつくったが、ただ食糧や衣類だけは慢性的に欠乏した。
シベリアはたしかに宝庫ではあったが、絶えず労働力が不足し、そこに働いている者も、食糧不足による飢えと野菜不足による壊血病に悩まされ続けたのである。
「日本」という、海洋のなかにある文明圏が、大きくロシアの為政者やシベリア関係者に、期待という光とともに浮かび上がってくるのは、以上のような必要性からである。
ロシアはシベリア開発のために日本から食糧を得たいのである。そのために日本を研究し、漂流民を優遇し、その末に日本政府と正規の国交をもつことを願った。
帝政ロシアは、日本に対し入念な態度で接近した。まずは漂流民を通じ日本の地理、社会制度、経済、文化、言語を国家的意志で研究し、かつ日本と国交をひらくためにその糸口としてしばしば漂流民を送りとどけもした。
このロシアの国家意志こそ、江戸期日本にとっての一種の対露恐怖を受け続けた本体であった。
このような日露間の歴史的、地理的、物質的背景を知るよしもない若宮丸乗組員は、威勢良く、船乗りらしい潤達な心意気で、いつものような船出をしたのだった。