2013年12月26日
露寇(ろこう)事件始末(2-1) 荻野鐵人
2 若宮丸の遭難
若宮丸が遭難したのは、1793年(寛政五)である。11月20日石巻を出航したが、風が全く無くなってしまい、しかたなく東名(とうな)浦で風待ちとなった。翌々日の11月29日、登り風になったのでそこを出帆し、凡そ五十里ほど沖の岩城(いわしろ)領塩屋崎(しおやざき)沖にさしかかったとき、申酉(南西)の強風が吹き荒れ、船尾(とも)を越えるほどの高浪が打ち込むほどとなった。
11月30日、西風に代わったので、岩城領広野で碇を入れた。
12月朔(つい)日(たち)、広野でも辰己(南東)の風が強く吹き、高浪が立つようになったのでこのまま船繋(ふながか)りしていることも難しくなった。
平兵衛は、楫取(かじとり)の津太夫とも相談し、いったんは石巻へ帰帆することにした。
津太夫は平兵衛より十八歳年長で、平兵衛を一人前の船頭にしようと子供のときからきびしく育ててくれただけにこんなときは頼りにしていた。これまでにもこんなことは良くあった。
12月2日、広野から石巻への帰帆中の暁七ッ時からは、北風に替わって順調だったが、しばらくするうちに、西南西風から、大西風が吹き始めた。大時化(おおしけ)である。
さすがの平兵衛も万策尽きた。乗組員は髻(もとどり)を切り、神仏に祈りながら、命がけで働いた。
一時は、塩屋崎の土地がかすかに見えているようだったが、しだいに見えなくなった。
ついに風を避け、沈没を免れるために帆柱を帆もろともに切り倒し、坊主船の状態にした。
舟は黒潮に乗って東上しはじめたらしい。
幸い、若宮丸は江戸への往路の廻米船であり、米は十分にあったが、沈没を防ぐために12月5日までの問に半分ほどは捨てざるを得なかった。
寛政六年(1794)1月6日、7日と再び大浪に揉み立てられた間に、残った米の半分を捨てた。
1月11日頃からは、平兵衛が水の節約だけはきびしくしたにもかかわらず、積込んだ飲み水が失くなり、雨水を貯えて使った。
飲み水が尽きた時は、全員で汐垢離(しおこり)をとり雨乞いをしたら不思議と多少は雨が降った。その後もこの雨乞いで雨が降らなかった時は一度もなかった。
2月5日、西南西の大風が強く、船が大破し、米も二百俵ほど残して捨てた。
4月に入っても、時雨が降る。5月に入っても雪が降った。日本の冬のようであった。
平兵衛は微熱が続き、津太夫の必死の看病にもかかわらず、体は少しづつ弱ってきている。体のむくみもひどい。もう体を起こしていることもできなくなっている。
そして、寛政六年(1794)5月10日(陽暦6月7日)朝、深い霧が晴れると、雪を頂いた山をもつ大きな島影が、北東の方角に望まれたのだった。