2013年12月28日
露寇(ろこう)事件始末(2-3) 荻野鐵人
原住民族のエスキモー系のアレウト人だったのである。
漂着した場所を若宮丸の漂民たちは、島人が、「オンデレイツケ」と、言っているように聞こえた。
この島はアリューシャン列島中のアンドレヤノブ(Andreanof)諸島の中のアッカ(アトカ・Atka)島であったが、日本の漂流民たちは勿論ここが故国からいかなる方向に、いかに隔たっている島であるか、そうしたことはいささかの知識も持っていなかった。
大黒屋光太夫らが漂着したのは西隣のクルイシー(Rat)群島中のアムチトカ島であった。
6月8日、船頭平兵衛は心に緊張が切れたのか絶命した。船に乗っているときからずっと手足や顔が腫れ、腹も膨隆していた。
平兵衛の死は漂民たちにとって、大きな打撃だった。
まさに帆柱と舵を失った船のように、これからどうすれば良いか、途方に暮れた。
津太夫を先頭に全員で泣きながら砂地を深く堀り、平兵衛を埋葬した。
6月12日、ロシア人が訪ねてきた。
年の頃、五十ぐらいで皮舟に乗り、犬、鹿の皮を着ている。
島人五人に鉄砲とまさかりのようなものを持たせて警護させている。
ロシア語でしきりに聞くが分からない。
竹竿を持ってきて我々の舟に一本立て、二本か、三本かと聞く。
やっと分かり一本帆柱で乗って来たと答えれば、うなずいた。
「ニツポン?」
と、聞くので、そうだと答えた。
帆柱は、外国では二本か、三本のようである。一本は日本だけのようだ。
そのロシア人は指図して、茄で卵を食べさせてくれた。あひるの卵よりも大きい。
残りの十五人はロシア人の案内で、アッカ港まで連れて行かれた。
この港には三、四百石積みで三十人ぐらいの乗組員が乗るロシア船も停泊しており、ロシア本国から役人が出張してきて、三年目に交代しているようだった。
我々の舟が着岸したら、煮魚を振る舞ってくれた。
ここでの生活が始まった。
食事は三度三度汁と魚の塩むしが与えられた。
汁は黒百合の根を水で煮て、搗(つ)きただらし、水でうすめたものである。
鱈は年中ある。塩水で煮た後、つついてかまぼこの下地のようにしたところで、鯨か、あざらしの油をかけて食べる。
鮭、鱒、かれいは、時節によって取れる。
ニシンは四月始めから取れる。
鯨は自然に死んだものが流れ着いたら食べる。
七日に一度づつ、あざらし、あしかの油で大麦の粉を練って焼いたものに塩をかけて食べる。
島の水は澄んでいて、冷たい。
小便をためておいて、洗濯水に使っている。
皮衣の汚れたものはこの小便水に二、三日ひたしておいてから洗うと実にきれいに垢が落ちる。頭髪もこの水で洗う。
島人は数百人いてロシア人は四十人ぐらいいるようだ。