2013年12月29日
露寇(ろこう)事件始末(2-4) 荻野鐵人
当時、アレウト列島と露領アラスカは、毛皮王と称されたグリゴリイ・イワノヴィチ・シェリコフが采配をとるシェリコフ・ゴリコフ会社(露米会社の前身)が、事実上は支配する土地であった。同社の本部はカジヤク島(コジアク島)にあり、シェリコフの腹心、アレクサンドル・バラノブが現地総支配人として赴任し、東方へのいっそうの勢力拡大を策していた。
ロシア政府によるアレウト列島の行政上の区分は、リシー、(Fox)群島より東の地域と、アンドレヤノフスキー群島より西と地域に分けられ、東部はウナラシュカ島に、西部はアツカ島に、それぞれ、支庁が設置されていた。
アツカ支庁はシェリコフ・ゴリコフ会社の出張所ともなっていたようだ。
出迎えのロシア人は、たぶんヤサーク(アレウト人に課した毛皮税)の徴収人だっただろう。
江戸時代、出港した船が行方を絶つと、遺族たちは、一年間はその帰還を待った。
そして、一年後になお消息が知れなければ、船の出港した日を乗組員の命日に定め、始めて供養の法事を営んだ。
石巻に線香の香りが漂うころ、食べ物があわないのか、アッカでの若宮丸漂民の体の調子がだんだんと悪くなってきた。
冬は特に悪かった。
島人たちほど魚や動物ばかり食べられなかった。
翌寛政七年(1795)春、漂民たちはロシア船に乗せられ、アッカ島を発った。
この時のことを彼等の一人は次のように書き記している。
「永く此の島に居れば、日本人一人も助かるまじとて、其の商船に私共十五人を乗せ、四月四日に出船す。此の商船の船頭の志し、誠に日本人の及ぼぬ実心也、人は欲に募り人を殺し、悪心起す事、日本人に多く有りけるに、彼の人々の姿、有様は、蝦夷(えぞ)(アイヌ)に同じ形なるに、ヲロシヤ国の都より此の処まで、道程凡そ一万九千里余の所より来たり、日本人を助けんと、商ひを半途にして帰国の志しを考へ、私共も神か仏と思ひ、涙を流し候」(美世利国漂泊録)
若宮丸漂民を深く感動させた、アッカ島居留ロシア人たちの博愛主義には、実は、そうさせずにはおかない理があったのである。