2013年12月30日
露寇(ろこう)事件始末(2-5) 荻野鐵人
第一回ロシアの遣日修好使節アダム・ラックスマンの一行がエカテリーナニ世号に光太夫ら三名を乗せ、蝦夷地(北海道)の現在の別海町の沖合に姿を見せ、やがて根室港に入ったのは、寛政四年九月のことであった。
松平定信に派遣された宣諭(せんゆ)使、目付石川將監忠房と西城目付村上大学義禮(よしあや)が寛政五年(一七九三)六月に松前で光太夫ら三名の漂民を受取り、交易の国禁である旨を告げ、諸外国との交渉は長崎でのみ取扱うという国是を理由にロシア側の公文書(修好通商関係の成立を求めたシベリア総督の文書)を受理することは拒絶した。
その代りに、長崎入港を許可した信牌(しんばい)がラックスマンに手渡され、修好通商問題は長崎において継続させることで、一応の決着が図られ、食料(大麦・小麦・蕎麦)その他肉などを供給して去らせた。
長崎への入港許可証を発給したのは、松平定信には、ロシア側の強い要求があれば、長崎か蝦夷地での交易を許す腹案があったからであった。
九月に、エカテリーナニ世号がオホーツクに帰帆すると、ロシァ側には喜びの声が満ちたという。長崎への入港許可は、即日本との通商開始の吉報と受けとめられたのである。
わけてもこの朗報は、北方植民地に居留するロシア人たちを驚喜させた。
多年にわたって悩み続けてきた、穀物類や野菜、衣料などの生活必需品の恒常的欠乏が、日本との交易開始によって、一挙に解消されるものと、誰しもが思ったからであった。
若宮丸漂民が、未だオホーックへの航海中だった、一七九五年(寛政七)六月十三日、エカテリーナニ世(EkaterinallAlekseevna在位1762-1796)は、遣日修好使節アダム・ラックスマンとエカテリーナニ世号の船長ワシリイ・ロフツォフを謁見し二人の位階を昇進させた。
キリル・ラックスマン(KirilG.Laksman1737-1795、アダム・ラックスマンの父)は周旋を高く評価され、六等官の官位を与えられ、勲四等ヴラジーミル勲章を授けられた。破格の処遇であったという。
その後、キリル・ラックスマンは、女帝より第二回遣日修好使節団の派遣の命が、早急に下るものと予測し、ペテルブルグで待期していたと伝えられる。
勅命が発令されれば、今回はキリル自身も早急に参加して、異邦にある刎頸の友、大黒屋光太夫との再会を果たそうとしたのだ。
しかし、なぜか、女帝の命はすぐには下らなかった。