2013年12月31日
露寇(ろこう)事件始末(2-6) 荻野鐵人
キリル・ラックスマンは、郡山良光著『幕末日露関係史研究』によれば、次のような経歴の持主であった。
1737年、当時スウェーデン領であった現フインランドのネイシュトロで出生したが、5歳の時には、同地はロシア領に併合された。
オーブー大学でスウェーデン系の教育を受け、動植物学と鉱物学を専攻し、1781年、ネルチンクス銀山に顧問として赴任した。
1784年イルクーツクへ移住し、同市近郊のタルツィンスクにガラス工場をおこし、アレクサンドル・バラノブと共同経営にあたり、事業は成功を収めた。
科学アカデミーの名誉会員にも推挙され、1789年(寛政元)に光太夫ら伊勢漂民がイルクーツクに着した時には、経済的にも、学者としての社会的地位も安定していた時であった。
彼が日本に関心をもつようになった最大の原因は、スウェーデンの自然科学者トゥンベルイの「日本紀行」の影響といわれている。
トゥンベルイはスウェーデン人の医学者、植物学者で、近代植物学の泰斗(たいと)リンネの高弟であった。
師リンネの要請を入れ日本の植物採集に専念するため、オランダ東インド会社の医師となり、安永四年(1775)八月に長崎へ来て、オランダ商館の医師を勤めた。
翌年、商館長フェイトの江戸参府に従い、江戸では蘭医の桂川甫周、中川淳庵と親しく交わった。
安永六年秋に日本を去るが、帰国後「日本紀行」を執筆した。
ラックスマンが「日本紀行」によって、日本の蘭医二名を知っていたことは、日本帰還後の光太夫が、将軍家斉の上覧の際に両者の名前を陳述することにもつながり、尋問者一同をひどく驚かす結果を生んだ。
遣日使節の派遣を実現させた最大の原動力は、当時ロシア屈指の旅行家で、日本の研究が第一義で、通商などはどうでも良い、博物学者キリル・ラックスマンの未知の世界の自然界に対する異常な好奇心だが、使節の派遣計画実現に背後から強力な尽力を惜しまなかったのは、アレウト(アリューシャン)列島とアラスカの原住民を服属させ、毛皮王の異名をとったシェリホフで、イルクーツクの豪商ゴリコフと結び、シェリホフ・ゴリコフ会社を経営しロシア北方占拠地の毛皮業を独占していた。
現地での食糧や日用物資の補給不足に苦しんだシェリホフは、日本との通商が開かれることを切望していた。