2014年1月1日
露寇(ろこう)事件始末(2-7) 荻野鐵人
そうした事情から推すと、おそらく、若宮丸のアッカ島漂到時には、日本との通商開始に備えて、日本人漂流民の保護、ロシア本土へのすみやかな連行を命じた回状が、シェリホフのもとより、北方植民地のロシア人居留地に向けて、すでに通達されていたのであろう。
若宮丸漂民の聞いた、永くこの島にいては日本人の命が失われるという判断は適切で、冬期の去るのを待った初春の出帆は、温情のかよった配慮であった。
アムチトカ島での三年余の滞留を強いられた神昌丸の場合は、乗組員十七名中八名が同島で病死している。
カムチャッカで三名、イルクーツクに辿りつけたのは、光太夫ら六名にすぎなかったのに対し、若宮丸漂民では、アッカ島で一名、その後の移送中に一名、十四名が無事にイルクーツクに着している。
寛政七年(1795)四月三日アッカ島を若宮丸漂民をのせ出帆したロシア商船は、四月二十七日頃、毛皮積み込みのため聖パーヴェル島に寄港したのち、五月十二、三日頃、アムチトカ島で光太夫らの漂到のことを伝え聞いた。
六月二十八日、ロシア本土のシベリアの要港オホーツクに到着した。
着岸の際には、五百石積み位の船が五、六艘繋留されていた。
口径二尺四五寸、長さ七尺ばかりの大砲が港の数ヶ所に置いてあった。
丁度折りも折り、ズヴェズドチョフ(日本史料のケレトフセ)がロシア人の流刑移民家族四十人を率いてオホーツクから千島列島の得撫(ウルップ)島に出発するところであった。ラックスマンの訪日で可能性の出て来た日本交易に備え、同時に千島のラッコ猟利権を目的としてシェリホフが派遣した一団である。
若宮丸漂民はこの一団に故国への手紙を託した。この手紙は翌寛政八年(一七九六)、無事に厚岸(あっけし)詰松前藩役人に届けられたが、受けとりを拒否され、ズヴェズドチョフの手にもどされた。
しかしこの手紙は、幕府が享和元年(一八〇ー)支配勘定役富山元三郎を得撫(ウルソプ)島に派遣しロシア人の退去を求めた時に、ズヴェズドチョフから日本役人の手に渡ることになり、同年十二月二三日蝦夷地御用掛から幕府当局に届けられた。
漂民がこの手紙を書いてから六年半の歳月が流れていたが、この手紙の松前藩役人による受取り拒否は、同藩に思わぬ結果を招いた。
藩役人が幕府に無断で一件を処理したことが、蝦夷地御用掛によって、松前藩の監督不行届きと判断され、蝦夷地が全面的に幕府の直轄地とされる材料となったのである。
一方、手紙を託した若宮丸漂民のオホーックでの生活は、いままでよりもやや暖かい土地とはいえ、六月でも昼のうちは綿入(わたい)れ袷(あわせ)に単物(ひとえ)を着ていて、日本の二月ぐらいであった。
八月に入れば雪が降った。
十二月には海も川も氷り、カムチャッカまで千里だが犬(いぬ)雪車(そり)で行けるようになった。
オホーックにしばらく滞在後、バイカル湖の西南に位置するイルクーックへ身柄を送られることになった。