2014年1月2日
露寇(ろこう)事件始末(2-8) 荻野鐵人
3 若宮丸漂民オホーツクからイルクーツクへ
イルクーツクへの出発は、三隊に分かれて行われた。
八月十五日、儀平(34歳)、善六(26歳)、辰蔵(24歳)の屈強な三人が先遣隊となって、オホーツクを後にし、ヤクーツクを経てイルクーツクへ至ったのは、翌寛政八年(1796年)一月二十四日のことだった。
三人が無事着いたのが確認されてから、他の二隊も、五月、七月とオホーツクを出発した。
最後に出発した津太夫(52歳)の隊の市五郎は旅行中に腫気の症を患い、ヤクーツクにとどまり、療養に努めることになった。
ヤクーツクでは役所から医師が来て、水薬を飲ませ、赤い草の実のようなものを食べさせた。野生のはまびしの実ではないかと津太夫には思われた。
市五郎を病院に入院させたが、その病院には患者が二三十人いた。
なかなか快くならないので、津太夫は市五郎を残して出発した。
市五郎はほどなく没した。32歳であった。
市五郎を除く全員がイルクーツクで合流できたのは寛政八年(1796)12月下旬にもなっていた。
イルクーツクに一月二十四日着いた儀平、善六、辰蔵の三人はそろって、役所へ呼び出された。
そこには日本語の通訳がいて、漂着以来の次第を尋ねられた。
終わったら、飯料(賄い料)として一ヶ月に銅銭三百枚づつ渡されて宿に案内された。
寛政八年の十一月、左平(33歳)ら五人がイルクーツクに到着したとき、役所で会った通訳には驚いた。
ロシア人のような服装だが背丈は彼等より低く、眼の色は黒く、日本語が上手である。
「どちらの方ですか?」
と、聞いたら、
「ご不審はごもっともですが、わたしどもは、日本伊勢の国の新蔵と申すもので、先年、漂流して船頭光太夫と申す者と一緒にここに参りましたが、その後光太夫らは帰国いたし、某(それがし)はこの地に残りました」
「江戸深川で、勢州の光太夫という人がオロシャ船で松前に送られ帰朝したという噂を聞きましたが、残った人がいたことはちっとも知りませんでした」
新蔵の家に案内され、女房に挨拶されたが言葉が通じなかった。
新蔵の今の名はニコライ・ペテローヴィチ・コロティギンと言って、日本文字師匠の役でこの土地の学問所へ出勤し、日本文字手習(てならい)の師匠をしているようだ。
子供の弟子が六人いて、銀四十枚の給料だが、我々が到着してからは、その係りも命ぜられ、加増して百廿枚となったそうである。
銀一枚は銅銭百枚である。
新蔵は、当年四十二、三歳らしい。男子二人、女子一人の子がいた。
新蔵の女房が我々の滞在中に死ぬと、今度は、歳のころなら30ぐらいの後妻をもらった。
新蔵は日本字は、いろはの仮名は書ける程度だが、オロシャの言葉は読み書きも良くでき、公文書も書けるようである。
もう一人の通詞はロシア人だが、五六十年前に南部奥戸の竹内徳兵衛の船が漂流してきた時に永住した日本人に従い、12歳から17歳まで日本詞を習ったようで、寛政四年には光太夫を日本まで送り届ける役目も果たしたらしい。
その功により、銀四百枚の高になったそうだ。
イルクーツクで足掛け8年間滞留した14人の若宮丸漂民は、帰国の話もいつしか途絶え、現地の住民たちにも溶けこんだ。
津太央(49歳)は、漁網を編んで稼ぎ、左平(31歳)は、バイカル湖への遠征漁業団に参加している。
4年目の寛政11年には吉郎次が73で病死し、13人になった。