2014年1月3日
露寇(ろこう)事件始末(2-9) 荻野鐵人
「吉郎治病気重くなり、存命斗(はか)り難しと思へ苦しき声にて我々に云ふけるは、斯(か)く重病なれば、此の地にて死すなり、何卒(なにとぞ)命ながらへ、日本へ立ち帰らんと、朝夕仏神を祈りけるかへもなく、今死する事の残念なり、我れ死にたるとも、魂醜(こんぱく)、此の地を去り、日本へ帰るなり、各(おのおの)も無事にて、本国へ戻るよふに、身を大切にして、命ながらへ、帰朝の節は、我れ死したる事を語りくれと、さめざめとなき、残り十三人も一同に声をあげ、歎きければ、言葉不通のヲロシヤの人々も、共に袖をぞぬらしけり、いと哀れの愁傷なり」
我々十三人が当地イルクーツクでこの八年間に見聞きしたことを記すと、
家屋は三千軒ぐらい。
石屋は少なく木造の二階屋が多い。
住居の裏には菜園(はたけ)があり、だいこん、かぶら、煙草などをつくっている。
屋根には瓦がなく、板張りである。
ペチカという煙りを使った暖房があり、家の内は甚だ暖かく、襦袢一枚で暮らしている。これには我々も、始めのうちは眼が飛び出て気が遠くなるほど驚いた。
家の内には穴蔵が多い。
夏は、肉類、野菜の類いを貯えると涼しいので物が傷まないそうである。
また夏でも川には解け残りの氷があるので、この氷を穴蔵のめぐりに積むと腐ることはないそうだ。
風呂はから風呂で、めいめいの家にあり、住居からは離れて建っている。
石を積んでおいて、その下で火を焚き、その石を焼く。
この焼けた石に水をそそぐと湯煙が盛んにたって室内に充満させる。
室内には棚があって、人々はその棚の上に裸になってすわり体を蒸す。
小桶に冷水を入れておいて、火気があまりに堪え難いときは顔にそそぐ。
垢もよく取れ、草臥(くたびれ)も直る。月に四度入る。
食事は三度で、朝は小麦の蒸(むし)餅(もち)を少し食べ、茶を飲む。
昼、夜は裸(はだか)麦の蒸餅と牛肉の煮たものを食べる。
麦餅を「ケレプ」というが長崎では「パン」という。これが常食で裸麦の粉を蒸焼きにしたものである。
牛乳は常に飲む。桶にためて久しくおくと固まる。これも食べる。
また、乳汁より油を取り、料理に使う。米は白米(しらげ)で、南亜墨(アメ)利(リ)加(カ)の地方からの交易の品である。牛乳に水を加え粥にして牛乳油(バター)をさして宴饗の時など馳走の終りに出す。
「コーヒー」というものがある。木の実でそらまめのごときものである。モスクワの都の方からここに来る。黒く妙り、粗い粉にして布袋に入れ、その袋に熱湯をそそぎ、牛乳、鶏卵、砂糖を入れかきまわして飲むものである。もっとも中等以上の人のみ用いる。
酒は、麦醸(むぎ)酒(ざけ)である。
七十、八十歳の人で腰を屈んで歩行する人をついぞ見たことがない。
五六十歳の男は重い荷物を持ち、大斧を持って遠山へ樵りにも行くし、色々骨折り仕事をしても腰が痛いなどと言うのを聞いたことがない。