2014年1月4日
露寇(ろこう)事件始末(2-10) 荻野鐵人
一七九五年(寛政七年)七月二十日若宮丸漂民の先遣隊がオホーツクを出立する約一月半前頃、毛皮王シェリホフが、東部シベリア第一の都市であり、ロシアの東方経略の策源地で、シェリホフ・ゴリコフ会社の本社もあったイルクーツクで病没した。
シェリホフの遺志は、未亡人ナタリヤと、女婿のニコライ・ペトローヴィッチ・レザノブに託されることになった。後に来日するレザノブである。
同年十二月、豪商キセリョフらイルクーツクの商人団が、キリル・ラックスマンに斡旋を依頼した。
キリルは若宮丸漂民の日本送還を口実に、ヨーロッパ諸国がフランス革命戦争に煩わされている今日こそ使節団を派遣し、対日貿易関係樹立の好機である旨の上申書を、エカテリーナニ世に提出した。
長崎入港の「信牌」を与えるように女帝に要請したのである。
翌一七九六年(寛政八年)一月、キリル・ラックスマンが死去した。
かくしてシェリホフ、ラックスマンという商業的野心と学術的野心の差はあっても日本との通商の道を強力に推し進めてきた両輪が失われ、漂民が祖国に帰る望みが失われたかに見えた。が、エカテリーナニ世は、七月二十六日、ついに、若宮丸漂民を日本に送還して通商関係を開くよう命令を下した。
ところが、同年十一月、エカテリーナニ世は、脳卒中で死去し、派遣計画はいっさいが反古となった。
若宮丸漂民が日本に帰還できる希望の火は、エカテリーナニ世とともに消えた。
そして、パーヴェルー世の在位中の八年間は、見棄てられ、歴史の片隅に放置されることになったのである。
女帝エカテリーナニ世は、もとの名をソフィァ・アウグスト・フリードリッヒと言い、ドイッのアンハルト・ッェルプスト公の公女である。
生粋のドイツ人でシュテッチンの生まれである。この女性がロマノブ家のロシア帝位に即き、啓蒙的専制君主として三十年間ロシアに君臨し、その名を全ヨーロッパにとどろかすに到ったのであるが、彼女が即位する前の一七四一年から一七六一年までの二十年間ロシア皇帝であったのは、女帝エリザベータであった。
エリザベータはピョートル大帝の娘で、初め帝位とは無関係であると考えられていたが、それが近衛兵の反乱によって帝位に即く幸運を持った。
彼女は一口に言って国政は宰相に任せて、舞踏会に明け暮れた女帝と言っていい。
エリザベータは自分に子がなかったので、早くから後継者のことに頭を悩まし、ドイッのホルスタイン公に嫁した自分の姉の子、つまり彼女の甥カルル・ウルリッヒをキールから呼び寄せて皇太子にし、ロシア語とロシア正教の教義問答書を教え込んだ。
しかし、この皇太子は凡庸で、肉体的には大人でも、精神的には子供のまま発育をとめてしまっていた。
叔母のエリザベータ女帝もこの呪われた甥には絶望していたが、女帝の死後、この人物がピョートル三世として、ロシア皇帝の位に即いたのである。
彼は帝位に即くや、ロシアおよびロシア的なものへの憎悪を示し、ロシア人を含まないホルスタイン親衛隊を造ったりした。
が、このロシア嫌いのロシア皇帝は即位後一年足らずで、自らの妃に帝位を奪われるに到ったのである。
このピョートル三世の妃にして、夫ピョートルに代って帝位に即いたのが、エカテリーナニ世である。
彼女は夫がまだ皇太子である時代、女帝エリザベータに依ってドイッから迎えられたが、その結婚生活は初めから不幸であった。
夫は知性の低い人物であったし、またその上に愛人と共に別の宮殿に住んでいて、結婚当初から妃を嫌っていた。
夫が即位してピョートル三世になると、妃は危害が己が身に及ぶのを怖れ、先手を打って反乱を起した。
彼女の計画を応援したのは彼女と愛人関係を持っていた貴族たちであった。
その時、ピョートル三世と妃は別々の離宮にいたが、妃は反乱者たちに迎えられると、離宮を出て、近衛連隊を手中に収め、僧立会いのもとに宣誓をし、自分が帝位に即く布告を発した。
そして彼女は自ら近衛兵の服に身を包み、剣を手にし、白馬にまたがって、夫ピョートル三世のいる離宮を目指した。
無能のピョートル三世は、その間に何も為し得なかった。
ピョートル三世は使者を通じて、帝位を降りるから、愛人と共に郷里のホルスタインに帰してもらいたいと頼んだ。
それも許されないと知ると、何も要らないから生命だけは救けてくれと要求した。
妃はそのいずれも許さなかった。ピョートル三世は捕えられ、ロブシャに監禁され、そこで死んだ。
女帝エカテリーナニ世は斯くして帝位に即き、一七六二年九月二十二日、モスクワで盛大に戴冠式が行われた。
エカテリーナは皇太子妃の時代に何回も妊娠し、子供を生んでいた。
その時期に王位継承者パーヴェルー世も生まれているが、噂は噂として、その父が誰であるかは判っていない。
即位してからの男漁りは公然のものになり、何人かの愛人が次々にその名を列べている。
が、エカテリーナニ世が為したことは美男子を次々に愛人にしたことだけでなく、ロシアの版図を拡げ、内政の充実にも精力的に取り組んだ。
二度のトルコ戦争に依って、国威を上げ、ポーランド分割に依ってポーランドの大部分をロシア領としている。
シェリホフが、北方植民地における独占企業体の認可を、何度となく申請したが、女帝は決して許そうとはしなかった。
早くからフランス啓蒙思想に共鳴して、ヴォルテールやディドローと文通していた女帝は、一七七三年にはディドローをロシアに招待した。
さらにヴォルテールなどが執筆していた『百科全書』が、その無神論的内容のため本国フランスで五九年に刊行禁止になっていたのをロシアで出版しようと申し出て注目を集めた。 フランス自由思想の信奉者だったエカテリーナはイギリスやオランダの東印度会社を企業の自由競争に反するものとして嫌悪し、シェリホフの申請も同様の理由から拒絶したのである。
しかし、このようなエカテリーナニ世も、一七八九年のフランス革命に直面して、自分がいかに危険が玩具を子供たちに与えていたかに愕然とした。
女帝は自由主義は国家の敵と宣言して、反動政治に転じた。急進思想を恐れ、危険な傾向の論説は発表を禁止したのである。
エカテリーナニ世に代わって、新ッァーの座に、ついたパーヴェルー世は、父のピョートル三世が母エカテリーナニ世によって殺害されたことを知り、母を幼児から憎悪してきた。
したがって、五年後、父同様に暗殺されるまで、母エカテリーナの政策をことごとく覆すことに一生を費やしたのも無理からぬことである。
母が手を染めた政策、第二回対日修好通商使節団派遣は、即時中止された。
パーヴェルー世のもとで露米会社の発足は、ごく自然の流れでもあったようだ。
一七九七年(寛政九年)初め、イルクーツクの商人団が、「アメリカ商事会社」の設立を申請し、新帝パーヴェルはこれを認可した。
シェリホフ・ゴリコフ会社にとっては新しい競争者の出現である。
この渦中、イルクーツク商人団の再統合を進めたのは、シェリホフの娘婿で元老院第一局長レザノブであった。
レザノブの働きで両会社合併の動きがおこり、翌年八月、「合同アメリカ会社」が設立された。
レザノブとシェリホフ未亡人とは、さらに強力な特権会杜の設立を目論んだ。
レザノブは、ペテルブルグ官界の実力者、商相ニコライ・ペトローヴィッチ・ルミャンツェフ、ペテルブルグ知事パーレン伯爵と結んで、反対派を排除した。
一七九九年(寛政十一年)七月、エカテリーナニ世時代の独占禁止政策に代わって、この「合同アメリカ会社」に北太平洋地域の開発経営の独占権が与えられ、「ロシア・アメリカ会社(露米会社)」が誕生し、ロシアの東方経営に新時代が到来した。
レザノブは同年九月、その総支配人に就任し、その役員会をイルクーツクからペテルブルグに移すとともに、皇帝をはじめ政府高官を大株主に迎えて、国家保護のもとに強力な活動に入った。
一八〇一年即位したアレクサンドルー世は、露米会社に北方植民地におけるすべての権限を与え、海軍士官を現役のままで会社勤務につくことを認可し、これを軍務と認めるなどの保護を与えた。皇帝に直属する文字通りの超独占企業体が発足したのである。
ニコライ・レザノブは、一七六四(明和元年)のペテルブルグの生れ、生粋のロシア人だった。海軍軍令部長の秘書官として官界に入り、諸外国語に堪能の上、端麗な容姿と弁舌にもめぐまれ、たちまち奔放なエカテリーナニ世の寵愛と信任を得たという。
元老院幹事の時、北方植民地の視察を命ぜられ、イルクーツクに赴く。そこで、シェリホフとの親交が生じ、のち女婿ともなり、毛皮王が切望し続けた日本交易の遺業を、継承することにもなったわけである。