2014年1月5日
露寇(ろこう)事件始末(3-1) 荻野鐵人
4 最上徳内の登場
工藤平助(球卿)(1734~1800)は、紀州藩の江戸詰の藩医の三男にうまれたが、生家に縁うすく、その聡明をみこまれ、少年のとき仙台藩伊達家の江戸詰の藩医工藤丈庵の養子になり江戸に住んだ。
医者の実子がかならずしも医学修業に堪えられる資質をもっているとはかぎらないから、この時代、幕府の官医や諸藩の藩医のあいだでは、同業の次男、三男で資質のいい者をさがし養子にすることが多かったのである。
平助はやがて漢方医になり、二十一歳で家禄三百石を継いだ。
物産・本草学者で発明家でもあった平賀源内や蘭学者前野蘭化(良沢1723~1803)とも親しくまじわった。
寛政の奇人といわれた林子平(1737)は江戸生れであったが、兄の仙台藩仕官にともない仙台へ移住していた関係で平助とは交際があった。
平助は子平を「疎頑(そがん)」としながらも人柄をみとめていた。
子平の北辺の情勢と国防を論じた「海国兵談』は幕府の忌避にふれ、処罰されている。
仙台藩はかれの四十歳のとき、平助の経世の才を認め、藩医から財務官(出入司)に転じさせ、平助の異能を大切にした。
藩は、さらに、ある時期から平助に対し、当時としては破格といっていいほどの自由をゆるした。かれは藩から三百石の俸禄をもらっていながら、一種の自由勤務で、医師は剃髪が普通なのに畜髪し、その居所も藩邸内でなく、日本橋の南数奇屋町の一角で町住まいし、訪ねてくるあらゆる層の者と交遊した。
平助宅は、学問を好む者、諸国の奇学の徒の訪れが絶えず、なかには旅の博徒までが食客になっていた。
経済・地理に関心の深かった平助は、博徒の話からも得るところが多かったのであろう。
蝦夷地の松前藩の士たちもしきりに来訪した。
平助が北方の地誌や情勢に明るくなったのは、かれら松前藩士たちによるところが少なくない。