2014年1月6日
露寇(ろこう)事件始末(3-2) 荻野鐵人
平助の経済感覚によれば、ざっとみて、日本は、松前・大坂・長崎からなりたっていた。
この時代、蝦夷地(松前藩)と大坂間には織るように船がかよい、その船は魚肥を満載して大坂に荷揚げした。
大坂の魚肥問屋はそれを全国に撒くのである。魚肥は棉作(わたさく)に欠かせぬものだが、北海道の鰊(にしん)は綿のかたちになって四民に衣料を提供していたことになる。
平助を訪ねた者のなかに、田沼意次の側用人もいた。
用人いふ。
「我主人は富にも禄にも官位にも不足なし、此上の願には、田沼老中の時、仕置たる事とて、ながき代に人の為に成事をしおき度願なり。何わざをしたらよからんか」(平助の長女只野(ただの)真葛(まくず)の『むかしばなし』)と尋ねた。
後世に語りつがるべき事業としてなにをすればよろしうございましょうか、というのである。
平助は、あたかもその問いを待っていたかのように答えたという。
「そういうことであれば、国を広くする工夫こそよろしかろうと存ずる。蝦夷地に目を注がれよ」
「わが日本の領土たる、松前および東西蝦夷地・奥蝦夷地(千島・カラフト)まで全域の開拓を拡げ、国を富まし、そして難民を救済せよ、それが永遠に田沼老中の事業として世に末永く敬慕されることになる、不朽の大事業である」
側用人はよろこび、すっかり感心し、主人に篤と申上るゆえ一書にして、書いてくださらぬか、と言われて書いたのが、現に国立公文書館内の内閣文庫に秘蔵されている『蝦夷地一件』の中の一編「加模西葛杜加(カモシカツトカ)風説考」、またの名は「赤蝦夷風説考」上下二巻である。
ロシアという国の解明、カムチャッカ(平助の音ではかむさすか)・シベリア、その他の自然・歴史・地理まで書かれ、それに私見が加えられていた。
天明三年(一七八三)正月の完成である。
奇しくもこの頃、大黒屋光太夫以下十七名の乗る神昌丸が遭難し、厳冬の北海に漂っている。