2014年1月7日
露寇(ろこう)事件始末(3-3) 荻野鐵人
『赤蝦夷風説考』は、
「松前人の物語を聞くに、蝦夷の奥、丑寅(北東)に当りて国があり、赤秋(せきてき)といふ」という文章からはじまっている。
昔から赤秋たちは千島をへて蝦夷地にやってきて蝦夷と交易をしていた。
このことは松前人はよく知っている。
ところが近年になって、赤秋がオランダ船のようなりっぱな船に乗り、オランダ人のような服装をしてからは、様子が一変した。
国名をきくと、「ヲロシャ」という。
平助はそういう政情を持ったその地と人間を、「赤蝦夷」と呼ぶらしいと書いている。
「赤蝦夷の本国はヲロシャなり。リュス国といふ国も同事也。城下はムスコウビヤともいふ。カムサスカといふは、赤蝦夷の本名なり。カムシトカといふも同断なり」
と、同書にある。
平助はあわせてロシアについての概要ものべているが、かって長崎にいて不世出のオランダ通詞といわれた吉雄耕牛(よしおこうぎゅう)(1724~1800)からロシアに関する歴史、地理および文化一般をきいているだけに、ほぼ正確であるといっていい。
「……ヲロシャの国をひろめたるは皆此類也。兵威を以て、暴逆に切とり、又は無名の兵は出さずとかや」
と、平助は書く。
ロシアはその領土拡張にあたって理由もなく他国を侵略する戦争行為はせず、かならず他国の内乱の一方の要請によって兵を出す、ということであろう。
さらにシベリアについていう。
この地は韃靼(たつたん)の故国で、すべて「中華の支配」であったが、あるとき反乱がおこり、唐土の官人もこのためにほろんだ。
韃靼(たつたん)鮭粗人アンカなる者がヲロシャに救援をもとめたためにヲロシャは大軍を出し、乱をしずめた。しかるのちに法を改め、政を匡(ただ)し、万民を服従させた、という。