2014年1月8日
露寇(ろこう)事件始末(3-4) 荻野鐵人
蝦夷(北海道・千島)は、地理的にロシアに囲まれてしまっている、とも言い、「蝦夷を取まきてカラフトの末、西北より東に及びて皆ヲロシャの境地也。恐るべし」
と述べる。
さらにはしきりに日本の様子を窺(うかが)っているが、この目的は侵略よりも交易にある、という。
むしろ北方に長崎のごとき開港地をつくるべきだ、というのである。
「ヲロシャの本心は我国の金銀銅に目をつけると思はる」
とあるが、正確といっていい。
欧州にあっては、対日貿易を独占しているオランダのみが日本知識をもっており、オランダ人を通してわずかながら欧州にこの国の存在が知られていた。
このことは、日本に幸いした。どのヨーロッパ人も日本を占領しようということを考えたこともなかったであろう。
相当な文化をもち、人口が多く、社会が整頓されているという状態は、侵略の対象にはならなかった。
日本への人々の関心と魅力は、依然として金銀島だということであった。
十三世紀末のマルコ・ポーロの『東方見聞録』に書かれている黄金の島の説話はそのまま信じられていないにせよ、その印象が消えなかった。
一つには江戸初期に日本の鉱山は多くの金銀銅を産出した。
そのことによって大いに儲けたのはその時期のオランダ人であった。
これによって日本という漠然とした未知の像に、黄金の色彩を加えたであろうことは想像がつく。
いまひとつは、江戸初期、北海道に砂金が多く出て松前藩の財政が大いにうるおったことである。
このことについて当時来航したイエズス会の宣教師の報告がある。
砂金掘りのために来島する者が元和五年(1619〉には五万人以上、翌年には八万人であったという。
しかし、ほどもなく掘り尽くされた。
「日本の東北方に金銀島がある」と、ピョートル大帝は聞いていたし、かれの日本への関心の強さの一因にもなっていた。
ロシアが日本語通訳、アイヌ語通訳を養成しているということは、工藤平助も前掲の書でのべている。
「片仮名を書き、何事も通ぜずと云ふ事なし。…昔より日本人、此国に吹流されて来る時、厚くいたはりて妻縁をさづけ、子孫日本言葉能(よ)く云(いひ)、日本事(にほんじ)に通るを家業とす。ヤックコイ(イルクーツク)といふ所に一郭を構へて是を撫育す」
ロシアの南下が唐突な衝動によるものでなかったことを、江戸の北方専門の知識人たちはよく知っていたのである。