2014年1月9日
露寇(ろこう)事件始末(3-5) 荻野鐵人
赤蝦夷(カムチャッカのロシア人)がはじめて蝦夷地にやってきたのは、宝暦六年(1756)である。
ある日、厚岸(あっけし)湾(釧路の東方)に一隻の異国船が侵入して碇泊した。
たまたま松前藩の役人牧田伴内という男が運上金を徴税にきていたが、かれは息をひそめて船を見ていただけであった。
船上にいる人々は頭髪が赤く、骨格も異なっていた。
かれらは三日目にアイヌの女三人をさらい、大砲を発して去った。
牧田はこの事件を藩に報告さえしなかった。
それから三年後に松前藩の役人湊覚之進という者がこの厚岸にきて土地のアイヌからこの件をきき、はじめて藩へ報告書を出した。
が、藩は幕府へは内密にした。
報告すれば藩として統治能力のなさを疑われ、幕府の干渉をうけることを恐れたのである。
それでも松前藩が、以後、この藩なりの調査をしたところ、ロシア人が獺虎(ラッコ)を捕りにやってきてアイヌ人と争い、しばしば流血のさわぎを起こしていたことが判明した。
明和年間、両者が衝突した「得撫(ウルップ)島事件」と命名されている事件のあらましは次ぎのようなものであった。
明和五年(1768)、コサック百人長の地位にあったチョールヌイの一行が得撫島に至り、アイヌから毛皮税(ヤサーク)を徴収した。
そして越冬して獺虎猟を行い、六百頭もの獺虎(ラッコ)や、熊・狐の毛皮を持ち帰った。
また、同七年(1770)、ヤクーツクの商人プロトジャーコノフ商会の船でやってきた航海士サポージニコフらが得撫島に来て、出猟中の捉択島のアイヌ人を獺虎猟から締め出し、食料や道具を奪い、さらにアイヌ人数名を射殺した。
これに怒った捉択島アイヌは、翌年の明和八年(1771)、獺虎猟のロシア人を急襲し、二十一名を殺害したというものである。
その後ロシア人とアイヌは和睦し、得撫島の獺虎猟は両者の入会となったという。
アイヌたちにとって古代から神がゆるしてきた猟場を赤蝦夷に荒らされることは死活の問題であった。
かれらは赤蝦夷に抵抗し、そのつど、相手の大砲や小銃におどされ、ときに流血の惨を見た。
「赤蝦夷が猟場をあらし、ときに島に居すわっている」
と、いう旨の報告書を幾種類も松前藩は受けたが、アイヌへの保護措置も講ぜず、幕府へも報告しなかった。