2014年1月10日
露寇(ろこう)事件始末(3-6) 荻野鐵人
蝦夷地についてはこのまま放置すれば(松前藩のような小藩にまかせていれば)、蝦夷たちもヲロシャの命令に従い、わが国の支配を受けなくなるだろう、あとになって後悔しても遅いという。
このことが「赤蝦夷風説考」の主題といっていい。
この書で平助は、
1 千島全諸島は日本固有の島々である。
正保元年(1644)に松前家から徳川将軍家に上呈した地図、
寛文七年(1667)に松前藩が作成し、調整した地図、
元禄十三年(1700)提出の地図
『松前島郷帳』(続々群書類従)
以上の既存の意識から千島とカムチャッカ半島南域までが、わが日本の領土だとする。
2 北鎮の使命を担っていたはずの松前家が怠惰な施政をしているうちに、
ロシアが得撫(ウルップ)島に住民を送り、かつロシア艦隊が頻繁に千
島海域に現れ、さらに三陸沖や房総沖合までも南下し、何らかの行動
をしていた。
その威力を推察するに、わが国は到底それを駆逐しえない。
とはいえ、彼らの来航は修好通商が目的であって戦争の挑発ではないようである。
しからば、わが国より進んで開国通商をしたほうが国策としても宜しい。
と、言うのである。
田沼意次が、工藤平助の「赤蝦夷風説考』の憂えるところをもって政治姿勢としたことは、かれの政治的胆力といっていい。
意次は、八代将軍吉宗に見出され、その命により九代家重に密着して仕えた。
田沼時代は、家重の御側御用取次になったときから数えるとして十代家治の死までの三十四年間である。
その間、江戸封建経済をゆるがしている商品経済を無視できず、これを逆手にとって幕府財政や藩財政を建てなおそうとし、農本主義の財政から商品経済重視の財政に力点を移した。
祖法主義、農本主義の立場をとっている「善玉」からみればしたたかな「悪玉」であり、かれに対する反対熱はほとんど常識化した。
その政治家としての年譜の最晩年に、蝦夷地に触れることになるのである。
祖法違反も甚だしかった。
家康の朱印状によって蝦夷地支配および交易権はすべて松前志摩守にまかされている。
その基本的な権利に幕府が掣肘(せいちゅう)を加えようとするのが、田沼の方針であった。
当然、田沼はこの挙によって、反対派からその権力の基部を掘りくずされるにちがいなかった。
田沼が腹心の勘定奉行松本伊豆守秀持に秘密裡に調査させたところ、
1 松前には藩臣に対する独特な給地制があり、それを「場所」と称して
いる。
2 その場所請負者(商人)は、ロシアと抜荷交易をしている。
3 ロシア国人が南進してわが領土を蚕食している。
という驚くべき事実が発覚した。
まさに松本が調べた資料と平助の記述は全く一致したのである。