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2014年1月13日

露寇(ろこう)事件始末(3-7) 荻野鐵人

 松本奉行は、天明四年(1784)五月十六日に、組頭土山宗次郎作成の調査書に平助の「赤蝦夷風説考』を添え、
「赤蝦夷の儀につき申し上げ候書き付け」
 という上申書を田沼に内覧した。
 そして五月二十一日に認可になった。
 かくて松本奉行は二日後の五月二十三日に公式に幕議に議案として提出した。
 これが、案外に何の波欄もなく採択決定になったのである。
 同年十月十四日、松本秀持奉行から蝦夷地検分計画書が田沼意次老中に差し出され、同月二十一日に決裁になった。
 異例のスピードである。
 田沼は一大調査団を派遣することにした。
 この調査は、江戸人にとって蝦夷地がほとんど地理的に不明であるために、日本史上空前の探検になるはずであった。
 今日の呼称でいう北海道はこの当時、松前藩の和人居住地をのぞくと、東蝦夷地(千島をふくむ)と西蝦夷地に分かれていた。
 調査団もこの二つにわかれた。
 西蝦夷地は、四人の幕臣に、雇いとでもいうべき随員(医師、竿取、小物など)を含めると二十人ちかい人数になった。
 東蝦夷地は幕臣二名以下十人ほどの随員である。ほかに、指令部的な存在として四人の幕臣が派遣された。
 このときの調査団に、江戸期を通じての最大の探検家の一人である最上得内(1755~1836)も加わっているのである。
 数学者会田(あいだ)安明は、徳内の性格を「生まれつき異人にて、只(ただ)書を読むことを好み、殊に天文・算術を好み、その家業の内にもかたわらに算書を置きて、其術を考へ是を楽しみとす。人々と俗談もせず、常人の応対もはきとせずして、友の交わりも厚からず」とある。
 最上徳内は、ロシア人が島伝いに千島列島を南下しつつあった宝暦五年(1755)に、出羽国最上楯岡(山形県村山市)の百姓の次男として生まれた。
 半農半商で、その生活資源は僅かな田畑と煙草切りで、七、八歳頃から弟妹の子守をさせられたが、子守をしながら寺子屋の窓の下で一部始終を頭に入れ、いつの間にか寺子屋連中よりはるかに早く読み書きを覚えたという。
 十数歳の頃には親が切った煙草の行商に出かけ、山村・町方、遠くは津軽・南部までも奥羽街道を北行しながら売り歩いた。
 そのような旅のときは常に漢籍や算術の書物を懐中にしていた。
 安永九年(1780)徳内、25歳の時に父を失う。
 父の一周忌をすませたあと、ただ一筋に抱いていた向学の志に燃えて、江戸へ留学した。
 湯島の数学師永井正峯のもとで会った、同郷の鈴木彦助(後の最上流算学の祖会田安明)のすすめで、本多利明の音羽塾に入門することになる。
 時に天明三年(1783)、徳内はすでに29歳になっていた。
 神昌丸の大黒屋光太夫がアリューシャン列島のアレウト(アムチトカ)島に漂着した頃である。
 本多利明の音羽塾は、護国寺(文京区)の門前町にあった。
 将軍綱吉が母桂昌院のために建てた寺で、門前町は大変なにぎわいを見せていた。
 利明は音羽塾で、二十四歳のときから、天文学、数学、暦学、地理、測量、航海術、さらに北方蝦夷地開発論・焔硝製法論、産業論を教えていた。
 窮乏日本を殖産興業で富裕にし、窮民を救済するという憂国的な社会指導者でもあった。


  • 共立荻野病院             院長 荻野鐵人
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