2014年1月14日
露寇(ろこう)事件始末(3-8) 荻野鐵人
本多利明もまた越後国桃崎浜の農民の出であった。
十八歳の利明が単身江戸に出た宝暦十一年(1761)は、江戸期の科学思想の上に立った独創的な哲学者三浦梅園(豊後)や、空想的な共産主義をとなえた安藤昌益(南部)、または漢方家で独自の解剖学を志した山脇東洋(京都)など、社会の下積みから学者、思想家がむらがって世に出た時代でもあった。
利明は和算を関孝和、千葉歳胤に天文学を学び、蝦夷開拓に必要な天文・地理・航海術を身につけていた。
天明五年(1785)春に、この革命的な蝦夷地調査団が発表されたとき、四十二歳にもなっていた利明は蝦夷地見分隊員の一人に選ばれている普請役見習の青島俊蔵に、「どのような形でもよいから、彼の地へ行きたい」
と、願い出た。
青島は平賀源内の弟子で、かつて利明が長崎に遊学したときから昵懇の間柄であった。
俊蔵は快く引き受けてくれ、足軽の身分で蝦夷地見分隊随行者として採用された。
しかし、いよいよ出発が近づくと、利明は残念ながら病気になったので、門人の徳内を代人とすることを青島俊蔵に願い出た。
そして、これもまた許可された。
徳内の身分は顧(やとい)であり、役務は竿取にすぎなく、竿取とは測量の間尺持(けんしゃくもち)・標棒担ぎであった。
蝦夷地見分隊が江戸を出発したのは、天明五年(1785)二月のことであった。徳内は31歳である。
一行が松前に三月半ばに上陸し、松前藩の城下町に四十余日も滞在することになってしまったのには理由がある。
松前藩は案内役を買って出たものの、見分隊の邪魔をして蝦夷地を未開発のままにして置きたいと考えていた。
理由は、幕府から蝦夷地の経営を任せられていながら、調査巡見もいい加減にしてきており、漁業も商人に請け負わせ、その運上金(税金)を藩の収入としてきた。
その運上も、商人の上前をはねるにも等しく、たいへんな高税であり、藩の政治は古来この高税の獲得を主とし、北海の利を占めてきた。
このため、北辺の経営は商人の掌中にあったとも言えた。
この蝦夷地の内情が他にもれることを極度に恐れ、あらゆる手段が尽くされてきたのである。
蝦夷地が元来、松前藩の監督下の地である以上、大公儀としては直接の権利をもっていないのである。
このため松前藩をたててその藩士に案内してもらうという形式をとったのだが、実際には足手まといになるだけであった。
松前藩士は蝦夷地に通曉(つうぎょう)していないばかりか、この探検において敢為(かんい)を示さなかった。
ひとつには示しようもなかった。