2014年1月15日
露寇(ろこう)事件始末(3-9) 荻野鐵人
「大公儀は蝦夷地の富を見て松前藩からおとりあげなさろうとしているのではないか」
という見方は、藩の上下に共通したものであった。
事実、田沼意次は窮乏が恒常化している幕府財政に新生面をひらく活路として蝦夷地を見ていた。
探検に参加した幕臣は勘定奉行の松本伊豆守秀持がえらびぬいた者であったとはいえ、みな志士的気概をもっていた。
たとえばアイヌに対し、ほぼ気を一つにしてつよい同情心をもち、かれらに対して威を加えるようなことがなかった。
同行の松前藩士は、この藩の慣例どおり、配下に槍や鉄砲をかつがせ、アイヌを威圧するかたちをとりつづけたのに対し、幕臣の方は終始平服で接した。
もともと江戸的身分でいえば幕臣は「殿様」とよばれ、諸藩の侍から懸絶した身分をもっている。
その「殿様」たちが気さくで、同行の藩士がアイヌに対し大名然として威張っているというのは、滑稽な図といえなくはなかった。
幕臣たちは江戸の開明グループから仕入れた思想と知識をもっている。
「蝦夷たちは松前藩からしいたげられている」
ということが、なによりもかれらの共通した憤りになっていた。
松前藩は、アイヌを未開のままに置いておくという方針のもとに、農業も禁じていた。
さらにはかれらが和語を学ぶことも厳禁していた。
「かれらは動物同然で、凶暴でございますからお近づきになりませぬように」
などと同行の松前藩士が注意したが、探検団はじかにアイヌに接することによって、かれらが礼儀正しくみごとな人倫をもっていることを知った。
また幕臣たちは、同行した松前藩の通詞が正直に通訳しないことを知って、直接通話すべくできるだけアイヌ語を学ぼうと努力したりした。
幕府によるこの調査探検は、犠牲者も出た。
西蝦夷班は天明五年七月、北海道の北端の宗谷から船を出して樺太に入り、もどって宗谷で越冬した。
蝦夷地の寒気を知るためということでとくに許可を得て冬営したのだが、耐寒知識のとぼしさのために結局は失敗し、隊長格の普請役庵原(いはら)弥六以下五人が、草ぶきのアイヌ小屋のなかで病死した。
天明六年の調査で、最上徳内は決死的な覚悟で、国後島、択捉島から、さらに北にある得撫(うるっぷ)島に入り、そこではじめて松前人のいう「赤人(あかびと)」という者に会った。
三人のうち二人がロシア人で、一人が山丹(さんたん)人(沿海州住民)であった。
徳内が、このロシア人がなぜ、捉択に来たかをたずねると、
「去年(天明五年)得撫島にきた大船(約七十人が乗っていた)の乗員だが、上陸してから仲間うちで喧嘩になり、山中に逃げこんで残留した。その大部分は本国に引揚げたが、この主従三人だけは捉択に逃げ込み、モシリハのアイヌの総乙名マウテカの厄介になっている」
とのことであった。