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2014年1月16日

露寇(ろこう)事件始末(3-10) 荻野鐵人

 このようにして蝦夷地と蝦夷ヶ千島(千島および樺太)の探検が進んでいる天明六年(1786)九月、将軍家治が病没し、それにともなって老中田沼意次が懲戒免職となった。
 この政変の背後に、のちに老中になる松平定信がすべての糸をひいていることはいうまでもない。
 新政権は「蝦夷地見分」を一挙にとりやめ、開発計画もすててしまった。
 さらに蝦夷地調査の大元締だった勘定奉行の松本伊豆守秀持は罷免(ひめん)させられ、その実務を担当した勘定組頭土山宗次郎にいたっては、信じがたいことだが、斬首に処せられた。
 現地で実際に探検した幕臣たちもすべて職から追われ、謹慎を命ぜられた。
 田沼時代の蝦夷地関係者はすべてしりぞけられたが、最上徳内だけは、元来百姓身分であったものを、定信によって一躍直参にひきたてられた。
 徳内は、子供の頃から楯岡の甑(こしき)岳の山頂で「おれは将来必ず侍になってみせるぞ!」と大空に向かって決意を誓ったというが、まさに念願がかなったことになる。
 徳内が野辺地(青森県上北郡)滞在の三年目の寛政元年(1789)五月二十九日、「蝦夷地に大騒動起こる」の情報が田名部(むつ市)から野辺地へ伝わった。
 事件は、当時「蝦夷騒動」と呼ばれた事件である。
 国後島では二十二人、その対岸の霧布場所(キイタップ)の目梨(メナシ)地方では四十九人の計七十一人の和人がアイヌに殺されたのである。
 飛騨屋によって現地の運上屋や番屋に派遣された支配人・通詞・番人といった出稼ぎ顧人と、飛騨屋手船大通丸の船頭・水主(かこ)たちがその犠牲となり、他に松前家上乗(うわのり)荷物改目付竹田勘平が含まれていた。
 上乗(うわのり)役とは、毛皮類など藩買上げの軽物御用や請負人の荷物改を任務とした。
 幕府の見分隊派遣によって、アイヌの待遇改善が進みつつあった最中、幕閣の政変で事態は逆戻りした。
 松前藩による旧来の暴圧と、飛騨屋久兵衛らの場所請負に関する苛酷きわまりない非人道ぶりに、人のいいアイヌもたまりかね、多年の憤懣が爆発したのである。
 飛騨屋久兵衛は「御試交易」による経営中止などでの損害を取り戻すべく、この地域に天明八年(1788)に突如としてアイヌ人の強制労働に基づく大規模な鱒・鮭〆粕(しめかす)製造方式を導入した。
 飛騨屋にとっては、高まる魚肥需要を背景に東蝦夷地の奥地の豊富な鮭・鱒資源を活用した〆粕生産に最大のねらいがあった。
 したがって当初は、請負人側は安上がりの労働力をいかに確保するかに関心があり、そのために〆粕生産の一部を支給し、アイヌを呼び寄せ働かせたものであった。
 ところが現場では、働きのよくない者がいる場合には、アイヌを〆粕にして殺すと脅かしたり、子供を背負ったメノコ(婦人)を大釜のなかに引き込み煮殺そうとするのでアイヌ人たちが駆け付けて救ったとか、この種の脅追めいた扱いが日常茶飯事であった。
 「江戸殿様」(将軍)は、精を出して働かないならば毒殺し、江戸からシャモ(日本人)を連れてきて住まわせるつもりなどと、幕府や松前藩の権力をかさにきた言動も常套手段であった。
 なかでもアイヌの人々を最も苦しめたのは「密夫」の問題であった。
 日本人出稼ぎ者は男だけの単身赴任であった。彼らは、夫のいるアイヌ女性であっても無理強いし、現地妻として抱えこもうとした。
 このような何をされるかわからない恐怖の心理状態に追い込まれていたときに、国後惣乙名(首長)のサンキチが病気見舞いの酒を貰って死亡したり、マメキリの女房が運上屋で飯を食べたあと急死するといった、毒殺も疑われる事態が起きた。妻を失ったマメキリは蜂起にあたって中心的な存在となったのは言うまでもない


  • 共立荻野病院             院長 荻野鐵人
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