2014年1月17日
露寇(ろこう)事件始末(3-11) 荻野鐵人
松前藩はこの事件を六月一日に知り、早速番頭新井田孫三郎以下二百六十余人の鎮圧隊を編成して現地に向かわせ、七月八日、当時霧多幕場所の運上屋があった根室のノッカマップに陣をしいた。
藩が直接探索して「徒党」アイヌを襲撃ないし捕縛するのではなく、有力アイヌ首長を通して説得、投降させる方式をとった。
この結果、蜂起に関係したアイヌが戦いを止めて、鎮圧隊に「手印(ていん)」を差し出し恭順の意を示して出頭し、国後四十一人、目梨八十九人の計百三十人が現地の仮牢に繋がれた。
ところが、アイヌ首長の説得で出頭したにもかかわらず、国後ではマメキリら十四人、目梨ではシトノエら二十三人のアイヌに死罪の判決が下された。
刑の執行中牢内では、処刑対象者が「ベウタンゲ」(危急の絶叫)をあげて騒ぎ出し、藩はこれに鉄砲を打ち込むなどして三十七人全員を殺害した。
処刑者のなかには、説得にあたったアイヌ首長の子も含まれており、肉親や同族を松前藩の前に差し出さねばならなかった「味方」アイヌの苦しみは想像を絶するものがあった。
野辺地にあった徳内は、この状況を逐一江戸の本多利明、青島俊蔵に急報した。
俊蔵はそれを要路に報告したので幕府、新老中首座の松平定信は大いに驚いた。
しかも、アイヌの蜂起は、ロシア側の指嗾(しそう)によるとの風聞も流れ、定信の蝦夷地不干渉策は変更を余儀無くされる。
真相糾明のために幕府の吏人を派遣することとしたものの、常に隠蔽主義を取ってきた松前藩だけに、青島俊蔵を長崎俵物(ひょうもつ)御用の名目で、笠原五太夫を俵物行商人に装わせ、隠密として蝦夷地の調査を命じた。
俊蔵は東蝦夷地に向かい、五太夫と徳内は西蝦夷地を探索してロシアの侵略動向を探り宗谷に至った。