2014年1月19日
露寇(ろこう)事件始末(3-12) 荻野鐵人
事件は、松前藩の家老二名の三十日押込め、飛騨屋の請負い場所没収という弥縫(びほう)策(さく)で処理された。
幸いにもロシア関与の事実はなく杞憂に終わったが、幕閣内部では蝦夷地をめぐって何か対策が必要であろうとの論議が巻き起こった。
老中首座の松平定信は、蝦夷地は異域であるという幕府の伝統的な国境観をひきずり、蝦夷地を不毛のままにしておくほうがロシアとの緩衝地帯になってかえってよかろうと考えていた。
騒動後の事件処理にあたっては、幕府は、松前藩に対して、
1 東西蝦夷地の場所は商人に請け負わせず、藩が直接「介抱」交易して
アイヌの「帰伏」を第一とする。
2 番所を設けて勤番士を派遣し対外防備に厚くする。
といった内容で落着させてた。
調査が一段落するや、俊蔵・徳内は江戸へ引き上げた。
そして、十一月に俊蔵は報告書を作成して幕閣に提出し、擾乱の真相を明らかにした。
即ち、前年の一揆も松前藩の仕業ではなく、商人の暴利搾取から起ったもので、交易市場の取り締まりは勿論だが、あくまでも蝦夷地を公儀直轄として、アイヌの日本人化と産業開発を計り、十分な兵力を置く必要があるとした。
老中松平定信は、この報告書と、定信が別途に笠原五太夫に行わせた飛騨屋久兵衛の不正な蝦夷交易の調査吟味書とを比較検討し、寛政元年十二月六日になって、俊蔵の報告書に不束(ふつつか)な記述を発見した。
その不束とは「蝦夷地一件』中の記録によると、俊蔵は俵物商人という名目で派遣した隠密であったのに、国後アイヌら四十余人を集め、擾乱の原因を探ろうとしたり、殊に、松前家の欠陥を暗に聞き糺(ただ)そうとし、さらに松前藩の懇請を入れ、極秘を要する重大任務を忘れ機密を漏らしてまで松前藩に助言を与え、手心を加えた報告書を提出したのは、不届き至極だというのである。
俊蔵は、それより二、三年前の天明五、六年の巡島の際、眉目秀麗にして当時独身の俊蔵は松前城下の港の遊女に入れあげたことがあった。この旧悪の暴露を松前藩に脅かされたのである。
寛政二年(1790)一月二十日、青島俊蔵は、揚屋入りとなった。
そして、徳内も正月二十三日、連累者として捕らえられ、入牢することになった。
寛政二年八月五日、俊蔵は「遠島」の刑(八丈島)を申し渡され、十七日、出帆前に揚屋牢の中で病死した(享年四十歳)。
だが、徳内は、「其方儀不将の筋もこれなく候間構い無し」との申し渡しがあり、放免となった。
徳内は八月、老中松平定信から、「普請下役」の内命あり、十月、御普請役(ごふしんやく)下役に取立てられ、さらにその十二月に一躍直参旗本格の「普請役」に昇進した。
この年の末以後の幕府の「御救(おすくい)交易」には現地での責任者の一人にまで「大出世」して参加し、幕府の蝦夷地経営には必要欠くべからざる人物になった徳内の幕臣への取立ては破格の抜擢だった。
だが、青島俊蔵と徳内の明暗を分けた裁定には、謎めいた部分が多い。
徳内はその後、樺太をも踏査し北方探検家としての名声をかちえるが、天明蝦夷地調査団のなかで、徳内ただ一人が寛政二年以降の蝦夷地経営のなかで「立身」していった謎は何か。
幕閣直属の隠密だった気配が濃厚にただよう