2014年1月20日
露寇(ろこう)事件始末(3-13) 荻野鐵人
遣日修好使節アダム・ラックスマンが、寛政四年(1792)九月五日(陽暦十月二十日)、伊勢漂流民大黒屋光太夫ら三名をエカテリーナ二世号に乗せ蝦夷の根室に到着したという報告が松前に達したのは、十月一日であった。
最上徳内が樺太探検を終り、石狩に於ける救済交易を済まして松前に戻ると、城下は上も下も光太夫ら三名の噂で持ち切っていた。
当時の日本社会に衝撃を与えたのは、光太夫らがロシア領からの初めての生還者であったこと、同時に、アダム・ラックスマンが鎖国令以降交易の認可を求めて開国を迫った最初の西欧世界からの使者だったことによる。
蝦夷の地に出現したロシアの黒船は、まさに来るべきものが来たという衝撃だったのである。
徳内の急遽送付した精緻な現地報告「蝦夷風俗人情之沙汰付図』(1790)が、松平定信のロシア船来航に際しての的確な措置を生んだ。
この地図には、徳内がロシア人との接触によって直接得た千島列島のロシア語の島名が付記されて、当時の西欧及びロシアに於けるどの日本北辺図に比べても遥かに優れたものであった。
徳内は次のように考えていた。
カムチャッカ半島の南端部に住むクリル人は元来蝦夷族であるから、カムチャッカの南域およびその以南に続く国後島までの二十一島々はすべて日本の属島である。
島といっても四国や九州ぐらいの島は多く、二十一島合わせれば、日本の数倍の面積である。
これまで千島を小さくばかり想像していたのは、経緯度を測定しなかったからであった。
千島は林子平が考えていたような群島でなく、科学的判断から斜形の列島である。
このことを知ってか、赤人(ロシア人)は、1713年(正徳四)カムチャッカを従え、その後、安永年間よりカムチャッカに城郭を築き、郡県の交代をし、盛んに開業した。
二十一島々すべての島名を改め、撫育教導し、租税をとって、帝都モスクワに送っている。
その島々の土人も今はすでに赤人の風俗に化している。嘆かわしいことである。
赤人は元来寒国の生まれの者であるから、日本人が住めない遠国まで航海し交易することを業としてきた。
彼らは国王の命令と称し、カムチャッカより遥かな十余島を隔てた得撫(ウルップ)島まで来て、臘虎(ラッコ)を捕獲している。
カムチャッカまでも日本国の領土なのに、松前家は得撫島までロシアに奪われたことも知らないでいて、国後島でさえ手が届きかねる現状である。
まず、捉択島を取括り、次ぎに得撫島と次第に奥の島々に及ぼすことが緊要である。