2014年1月21日
露寇(ろこう)事件始末(3-14) 荻野鐵人
寛政十一年(1799)正月、幕府はついに、国後、捉択両島を含む東蝦夷の地を松前藩から借り上げる形で、直轄とすることに踏み切った。
書院番頭松平信濃守忠明を総裁に、勘定奉行石川忠房、目付羽太庄左衛門正養、大河内善兵衛政養(まさやす)、三橋藤右術門成方(なりみち)が箱館に蝦夷地御用掛(享和元年、正規の遠国奉行である蝦夷地奉行となり、次いで箱館奉行と改称)を命ぜられ、この五人に従う諸役人七十名もそれぞれ任命された。
同年七月、北前船主の高田屋嘉兵衛が官船義温丸で国後と択捉間の航路開拓を成功したことにより、択捉島以南の南千島が、名実共に日本領土に組み入れられた。
同島の先住民族のアイヌにとっては、了解なしの一方的措置だったことは、ロシア側の北千島、アレウト列島、アラスカにおける、先住民族無視の占拠のやり方と、軌を一にしていたわけである。
幕府の東蝦夷地直轄が、ロシア側の南浸に備えた対抗手段だったことは、いうまでもないが、同時に、幕府が始めて本格的なアイヌ対策(アイヌの日本化)に乗り出したことでもあった。
寛政十一年(1799)十一月、民間商人による場所請負い制度も廃止(文化九年に復活)され、江戸には蝦夷会所を設置して、幕府役人の監視下での直捌(じきさば)き制を採用した。
ために、アイヌに対する経済的収奪は大巾に改善をみたが、同時に月代(さかやき)などの"和人化"を押し付けたことは、強い反発を招いたという。
幕府は命を南部・津軽の二藩に伝え、蝦夷の地は要害であるから、戊兵を必要とするときは、両藩に於いて是を派遣すべきであるとした。
津軽藩は箱館戊兵の中から熟練の士両三人・足軽五十人、南部藩は熟練の士両三人・足軽二十人を派遣し、松平信濃守らに附属させることを命じた。
幕府は更に津軽藩・南部藩に命じ、蝦夷地に重役三人・足軽五百人を派遣させた。
その後、二藩は箱館に元陣屋を置き、南部藩は根室・国後・捉択に、津軽藩は砂原および捉択の振別に勤番所を設けて警衛にあたった。
文化四年(1807)二月、南部藩には東蝦夷地、津軽藩には西蝦夷地を警衛させた。
文化四年1807)三月、松前藩を陸奥の梁川に九千石を与えて転封し、全蝦夷地(国後・捉択両島、樺太南部を含む)を幕府直轄地とし、奉行所も箱館から松前へ移し、松前奉行と改称した。