2014年1月23日
露寇(ろこう)事件始末(4-2) 荻野鐵人
一方、一七九六年(寛政八年)に帝位についたパーヴェル一世は、プロシャ軍国主義への讃美者だったといわれるが、自由思想の血義を掲げるフランス共和国に、憎悪の念をたぎらせた。
トルコと結び、次いで、オーストリー、イギリスと提携して、フランスの地中海進出を阻止、ナポレオンの敵対者としての役割を担った。
ところが、ナポレオンが独裁者となるに及んで、パーヴェル一世の外交政策は逆転し、一朝にして、ナポレオン崇拝者へと豹変した。
オーストリーとの同盟を破棄し、イギリスとは断交し、1800年(寛政十二)の末には、ナポレオンとの聞に秘密の反英同盟を結成するまでに至った。
イギリス側はただちに報復措置をとる。
圧倒的な海軍力を行使して、ロシアを海上封鎖する挙に出たのである。
貿易の海上ルートを封じられたロシアは、たちまち経済の破綻に追い込まれた。
逆上したパーヴェル一世は、スウェーデン、デンマーク、プロシャとの四国同盟を締結し、イギリスに対する海上作戦を挑もうと決意した。
さらに、無謀なる軍事行動を決行する。
翌1801年(寛政十三)一月、ドン・コサックの騎兵団に、英領植民地インドの攻略を命じたのだ。
急遽出征したコサックの大軍は、未だ進軍途上の中央アジアで、補給物資が欠乏、兵員の大半が餓死するという惨状に陥り壊滅したと伝えられている。
この間、ペテルブルグの宮廷内では、パーヴェル抹殺の陰謀が進行した。
黒幕となったのは、首府総督のピョートル・パーレン伯爵だった。
1801年三月十一日の深夜、パーヴェル一世はペテルブルグ近郊のミハイル城内で、襲撃した近衛将校の一隊に刺殺され、四十八歳の生涯を閉じた。
即刻、二十四歳の皇太子アレクサンドルが、新ツァーを襲継し、パーヴェルの強圧政治の終息が告げられると、首府全体は喜びのどよめきに包まれたという。