2014年1月24日
露寇(ろこう)事件始末(4-3) 荻野鐵人
女帝エカテリーナが手塩にかけて育てた秘蔵児だったアレクサンドル一世は、すらりとした容姿、端麗な顔立ち、穏やかで夢みるような青い目、ふさふさした栗色の髪、顎の小さなくぼみ、エカテリーナに生き写しの魅力的な微笑の持ち主で、立ち居ふるまいは飾り気がなくて優雅であり、決して声を荒げることはなく、相手の言葉を傾聴するように首を少し曲げる癖があり、身分の卑しい者にも優しさを見せる術を心得ていて、しかも尊大な人間に信頼感を抱かせるようなところがあった。
女帝は、アレクサンドルを、アポロンの生れ代わりと呼び、フランス啓蒙思想の注入が、愛孫へのもっぱらの教育方針であった。
後年のアレクサンドル一世は、神聖同盟の首謀者となり、ヨーロッパにおける王政強化を促進し、復古反動の元兇ともなる。
けれども即位にあたっては、祖母エカテリーナの諸政策を踏襲することを表明し、平和主義を潔霧し、自由思想の擁護者としてふるまった。
父パーヴェル時代の追放者・流刑者は特赦され、ペテルブルグに復帰した。
宮廷内にはフランス共和思想の雰囲気が、再び蘇った。
新皇帝は、即位後、すぐにスウェーデンなどとの四国同盟を解消し、同年六月十七日、露英両国は海戦協定を結び、イギリスとの和解を果たした。
その後、オーストリー、フランスとも友好条約を調印し、ロシア帝国は、今後、ヨーロッパの動乱には干渉せず、中立の立場を守ることを言明した。
そして、翌年の1802年(享和二)三月十七日、宿年の敵手同志だったイギリスとフランスが、アミアン和平条約を締結すると、ヨーロッパには久方ぶりの平和が回復された。
もっとも、当時、"平和の中休み"と称されたアミアン条約下の和平状態はわずか一年二ヵ月間続いたにすぎず、一入〇三年(享和三年)五月、英仏両国は交戦状態に突入し、戦乱の兵火が再度、ヨーロッパの地を覆うことになる