2014年1月25日
露寇(ろこう)事件始末(4-4) 荻野鐵人
ともあれ、若宮丸漂民の日本への帰国をもたらした、ロシア最初の世界周航船派遣計画は、前記アミアン条約が生んだ、動乱のヨーロッパ世界に瞬時訪れた戦雲の晴れ間が、実現への呼び水ともなったのである。
ところで、世界周航船の最初の発案者は、当時ロシア帝国の海軍中佐だった、イアン・フョ一ドロヴィッチ・クルウゼンシュテルン(1770年~1846六年)であった。
いうまでもなく、ロシア史だけでなく、世界航海史上の巨人のひとりである。
クルウゼンシュテルンも、デンマーク生れのロシアの航海家べ一リング(1681~1741)のように、その姓がドイツ風であるように、ロシアに住みつつもドイツ語をつかう家庭にうまれた。
かれの生地はバルト海に面したエストニアである。
十四世紀はドイツ騎士団領だった。十六世紀にはスウェーデン領で、十八世紀初頭、ピョールによる膨脹でロシア領になり、その一県にすぎなくなった。
エストニア人はロシアで人種差別などを受けることがなかったらしく、とくにゲルマン系のひとびとは、ドイツ・スウェーデンからの帰化技術者を優遇したピョートル以来の伝統によって、ロシア国内における居心地はわるくなかった。
クルウゼンシュテルンはいくつもの名前をもっていた。公称としていたのが、イヴァンという名であった。
このことからみて、遠い故郷の新教からロシア正教に改宗して名実ともにロシア人になっていたことがわかる。
ただし宮廷政治にのめりこむことはなかった。
かれはのちに海軍大将にまで昇るが、その間、海軍兵学校校長に赴任し、航海学・水路学の向上など、ロシアにおける海軍技術の進歩と服務の基準の確立などの実務面で、ロシア海軍の建設につくした。
科学者としての評価も高かった。ロシアだけでなくフランス、イギリス、ゲッチンゲンなどのアカデミー名誉会員や通信会員として名をつらね、国外の各種専門家から友情と尊敬をもって遇された。
かれは正規の海軍履歴をももっていた。
1785年にクロンシュタット軍港にある海軍兵学校に入り、在学中に、トルコおよびスウェーデンとの戦争がおこり従軍した。
少尉のとき以来、多くの戦闘に参加し、そのつど戦例集に記載されるような軍功をたてたが、そのくせ、かれは生涯、自己に関する戦争の話題を好まなかった。