2014年1月27日
露寇(ろこう)事件始末(4-5) 荻野鐵人
クルウゼンシュテルンは、1793年より1799年まで、英国海軍に官費留学生として勤務した。
留学中の1796年、配下の海軍将校ユーリイ・リシャンスキーと連れだって、アジア視察旅行に赴いた。
途中、インドのマドラスで、リシャンスキーは帰国したが、クルウゼンシュテルンは清国の唯一の外国貿易港だった広東まで足を延ばした。
同地で、クルウゼンシュテルンを驚かせたのは、毛皮貿易に往来する英米商船のめざましい活躍ぶりであった。
当時、英国の毛皮業は、ヴァンクーバー島の西にあるヌトカ島に本拠を置くハドソン湾会社が独占していた。
また、コロラド河口にまで進出した米国も、北米西海岸でラッコやアザラシなどを盛んに捕獲していた。
大量の毛皮を積んだ英米両商船は、広東とマカオに入津し、巨額の利益をあげていた。
この広東での光景が、クルウゼンシュテルンに、世界周航船の構想を示唆したのであった。
その構想とは、バルト海の要港クロンシュタットと、東方ロシアの北方植民地とを海運によって直結させることにあった。
往路は、北方植民地向けの穀類や衣料などの諸物資を搭載し、南米のホーン岬を抜ける大西洋ルートをとる。
帰路は、シトハ(シトカ)、カジヤク(コジアク)島、カムチャッカを巡り、毛皮類やセイウチの牙などを満載して、広東かマカオへ運び交易する。
清国貿易で得られた収益を用い、東南アジアやインドの特産物を買い求め、アフリカの喜望峰を経て、クロンシュタットへの帰港の途につくというものであった。
当時、西方ロシアの海上貿易は、バルト海や北海領域での活動に限られ、北方植民地の清国との毛皮交易は、外蒙古近くのキャフタで行われていた。
このいわば東西に分裂しているロシアの国外貿易を、世界周航の海上ルートを開設することによって統一し、世界貿易にまで発展させることが、構想の骨子だった。
クルウゼンシュテルン自身は、イギリスやオランダの例にならい、ロシア版の東インド会社設立を想い描いており、その構想の当初においては、露米会社の存在には重きをおいていなかったふしが見られる。
クルウゼンシュテルンは、露米会社がきらいだった。