2014年1月28日
露寇(ろこう)事件始末(4-6) 荻野鐵人
アラスカはロシア領だったが、1867年、ロシアがアラスカとそれに付属する島々をアメリカ合衆国に七二十万ドルで売ってから合衆国領となる。
日本の江戸期のアラスカはロシア領で、主としてラッコなどの海獣の捕獲に役立てられていた。
ロシア領といっても、皇帝から特権を与えられた露米会社のものだといってよかった。
露米の米がアラスカのことであることはいうまでもない。
露米会社は帝政時代に興った資本のうち最大の一つだったといってもよく、その大きさは明治期の日本の三井・三菱どころではない。
この会社がアメリカの北西端の広大な土地とその海域を事実上所有していた。
この企業の本質は、海のコサックといってよかった。
かってシベリアの内陸を征服したのは、コサックが森林(タイガ)のアジア系原住民を隷属させて黒テンなどの毛皮獣を獲らせ、つぎつぎに黒テンのフロンティアを追うことによって結果的に成就したのが内実であるように、黒テンをとりつくしたあとにできた露米会社も、主要営業品目をラッコなどの海獣にむけた。
そのためには、航洋力のある帆船が必要だった。
さらには銃が要った。
かってのコサックも銃砲の威力を大いに利用したが、それは森林(タイガ)の民を隷属させるためのもので、じかに黒テンを射つためのものではなかった(コサックのもとで、じかに黒テンを捕獲させられていたのは、シベリア原住民だった)。
ラッコも、はじめは北太平洋の島嶼(とうしょ)の原住民に原始的な方法で獲らせていた。
しかし会社ともなると、それらの人々を使役しているだけでは商売にならなかった。
むろん使役した。
この会社の社員が千島あたりにきて、かってのコサックと同様、原住民にロシア正教の洗礼名をあたえ(洗礼名をあたえればロシア国籍とみなされた)、キプチャック汗国のモンゴル人のように毛皮税を課したが、島嶼(とうしょ)の人々の捕獲法では能率があがらず、結局は銃を使うロシア人を使用せねばならなかった。
自然、かれらのために食糧を補給せねばならず、そのためには帆船と海員と航海技術が必要だったのである。
この国策会社は、前述のように、もともとイルクーツクで活動していた大小の毛皮商人が合併吸収されたもので、1797年、皇帝パーヴェル一世の勅命で設立された。