2014年1月29日
露寇(ろこう)事件始末(4-7) 荻野鐵人
パーヴェル一世は、1799年6月8日、元老院に対し、新会社を「皇帝の庇護にある露米会社」と命名すること、二十ヵ年間の特権賦与、陸海軍による支援を命じた。
この特権にもとついて会社は海軍士官を雇用することができた。
ロシアは帝政末期まで商船隊をもたないにひとしかったし、また商船士官の育成をも怠っていた。
このため、露米会社が船をもつについても、それを操船し、航海できる者がいなかった。
海軍士官の中からさがすしか手がなかった。
この事情があるために、皇帝は会社に対し、現役の海軍士官を雇うことを許したのである。
また、強大な陸軍国家のロシアは、反面、著しく海軍力が立ち遅れていた。
世界の海洋で活躍する商船隊の編成により、優秀な幹部船員や水夫が養成される。
そうした海軍力の改善も、クルウゼンシュテルンの意図するところであった。
1799年(寛政十一)、パーヴェル一世が企てた対イギリス断交のため、帰国を余儀なくされたクルウゼンシュテルンは、ロシアに戻るとすぐに、世界周航船の派遣を含む、ロシア帝国の世界貿易改革草案を、海軍大臣に提出する。
しかし、英国の海上封鎖の最中にあっては、苦心の改革草案も絵に描いた餅に等しく、棚ざらしのままにおかれた。
ところが、アレクサンドル一世の即位が事情を一変させる。念願の世界貿易改革案は、1802(享和2)春、新皇帝の承認を得、クルウゼンシュテルンは、即時、計画の実行に取り組むことを命ぜられた。
同年七月二十九日、露米会社の本社から提出されていた世界周航探検隊派遣の申請を、アレクサンドル一世が裁可し、クルウゼンシュテルンの世界貿易計画案は、露米会社の事業として具体化することになる。