2014年1月30日
露寇(ろこう)事件始末(4-8) 荻野鐵人
双方の企画案は、独自に提出されたようだが、実際には、露米会社総支配人にニコライ・レザノフが、クルウゼンシュテルンの草案に便乗する形で、自己の企画案との合体を策した可能性が高い。
勿論、露米会社の参画は、世界周航船派遣計画を、実現化に向けて、一挙に加速させる力があった。
だが、その反面、新航路開設の海域調査という色合いが濃かった。
始めのクルウゼンシュテルンの企画案は、レザノフの影響により、露米会社の意向を強く反映する計画案に、随時変更させられていった。
すなわち、世界周航船派遣計画は、発案者のクルウゼンシュテルンの手を放れ、便乗者であったレザノフ主導の事業へと、主役が転じていくわけである。
後に、この両人は激しく対立する関係に陥るが、角逐の原因は、計画は発足をみる時点で、そのきざしがすでに宿されていたといえよう。
同年八月、アレクサンドル一世は、クルウゼンシュテルンを、世界一周航海の探検隊長に任命した。
当初、世界周航船は一隻の予定だったが、海難事故を考慮して、二隻とすることに決定した。
もう一隻の船長には、リシャンスキーが選ばれた。
九月、リシャンスキーと造船技師ラスモフが、船舶購入のため、ドイツのハンブルグへ出張した。あいにく目的に適した船が得られず、二人はロンドンへ向かった。
翌1803年(享和三)三月、ロンドンからの船舶購入の報知が届く。イギリスの二軍艦レアンドル号(四五〇トン)とテームズ号(三七〇トン)が、ロシア政府が買い上げた船であった。
そして、前者はナデジダ(ロシア語の希望)号、後者はネヴァ(ペテルブルグを流れる川の名称)号と名付けられた。
その後、世界周航船の派遣計画が、ロシア帝国の対極東アジア新外交政策へと移行していったのは、レザノフと政府内の実力者、商相ニコライ・ペトローヴィチ・ルミャンツェフの画策によるものといわれる。
元老院の高官だったレザノフは、パーヴェル一世暗殺計画事件の政変後、アレクサンドル一世の寵臣の座をも占めるようになっていた。
レザノフが、パーヴェル殺しにいかなる関与をしたかは詳かでないが、政変の黒幕パーレン伯爵とは親密な盟友関係にあったことから推すと、かなり深いかかわりをもっていたのであろう。
そして、黒幕のパーレンは父殺しの首犯として新皇帝にうとまれ、引退を強いられる。
けれども、レザノフにあってはツァー交代の政変劇はかえって飛躍の期ともなり、新政権内での地歩を固め、最有力な政策立案者にまでなっていたのである。