2014年1月31日
露寇(ろこう)事件始末(4-9) 荻野鐵人
こうして宮廷内と政府内におけるレザノフの政治的力量は、ロシア海軍の一上級将校にすぎないクルウゼンシュテルンには抗すべきようのない格差があり、政府内で進められる政策立案の圏外に、クルウゼンシュテルンはずっと置かれ続けることになった。
リシャンスキーらのロンドンでの船舶捜しが継続していた1803年(享和三年)二月十三日、ルミャンツェフは、アレクサンドル一世に対日貿易への覚書を提出し遣日修好使節の一件が、世界周航船計画に新たに加えられた。
いわずもがな、過ぐる十年前、アダム・ラックスマンが持ち帰った長崎入港の信牌が、その引き金となったわけである。
そして、一週間後の二月二十日、皇帝臨席の閣議が開かれ、宰相兼外相アレクサンドル・ロマノヴィチ・ヴォロンツォフ、レザノフらが列席し、最終的な計画案が決定をみた。
この閣議決定では、さらに別件の新企画が盛りこまれる。
それは、清国への修好使節の派遣であった。
使節には、ユーリイ・ゴロフキン伯爵を任命した。
北京にロシア大使を駐在させること。
ロシア商船の広東入港許可。
アムール川(黒龍江)河口における交易地開設というのが、外交交渉の主目的とされた。
かくして、世界周航船派遣計画は、青年皇帝の前途を祝福すべく、鎖国体制を布く極東アジアの門戸を開かんとする、すこぶる希望に溢れた一大国家事業へと、構想のみが水増し状に拡大されていったわけである。
周知のように、アレクサンドル一世が試みた、この日本と清国に向けた外交交渉は、その後まったく破綻に終わる。
日本に関してはさて置き、清国のケースについて記すと、1806年(文化三)一月、修好使節ゴロフキンは、キャフタから外蒙古の庫厘(クーロン)まで至るが、同地で清国役人の拒絶に会い、使節団はロシア領土へ追い払われている。
こうしたロシア側の動向からみて、若宮丸漂民の首府への召致は二月二十日の御前閣議で、おそらくは断が下されたのであろう。
光太夫ら伊勢漂民の件が想起され、日本への親善と友好の"大事な手土産"として、半ば忘れられていたイルクーツクの日本人漂民が、にわかに話題にのぼったのだ。