2014年2月3日
露寇(ろこう)事件始末(4-10) 荻野鐵人
6 ナデジダ出帆
若宮丸漂民は、約五十日間のペテルブルグ滞在中、商相ルミャンツェフの館内で全面的な世話を受け、ヲロシヤ遊女まで振る舞われる、大変な厚遇だった。
「盃を取りかわして後、床に入る、夜具は錦の類也、裏に獣の皮を付ける也、床に成りて、男女交合のときは、女の足ばかり、至って念を入れてからみ、しめて、手はふらりと投げて置く、是れは、初めて会ひし客に無礼成りとて、かくの如く也。ヲロシヤ国の婦人は、陰色深く、男に心安く馴染みければ、放埓にたわぶれ遊ぶ事、陰国にして、陰気強き故に、婦人は婬欲深き事也、故に色欲に心乱れ、遺恨、妬みの心も深く存りける事といふ」
五月十五日(陽暦七月三日)、月代(さかやき)を剃り、ロシア政府の仕立ててくれた、新調の日本装束に着替えた若宮丸漂民十名は、アレクサンドル一世に謁見した。
日本へ帰るもよし、ロシアに止まるもよしとのツァーの言葉に、帰国派の二人がどうしたことかこれまでの意志を翻して帰化派へと転じ、津太夫ら帰国派を呆然とさせた。
すでに帰化派で同郷の善六らに説得されていたのか、荘厳にして豪華で華麗なその場の雰囲気に気押され、青年皇帝の優雅な振る舞いに突如襲った陶酔の末の翻意だったのかも知れない。
彼等の謁見が行われた四日前、遣日修好使節が持参する国書が作成された。
寛政五年のときのアダム・ラックスマンの対日交渉は、イルクーツク知事ピール中将の書状を携えた来航であり、厳密にいえば、正規の国家使節とはみなせない側面があった。
しかし今回の使節こそ、ツァー自らが署名した国書の奉載者であり、ロシア帝国の威信をも託した最初の正当な遣日修好使節たることが明示されたわけである。
1803年7月10日、アレクサンドル一世はニコライ・レザノフを世界周航探検隊長兼遣日修好使節、及び北方植民地の全権者に公式に任命した。
ロシア帝国の国家使節に相応しい栄誉を有するため、侍従の要職も用意された。
また今回の壮挙は国家の記念事業として遂行されるとの見地から、一切の費用は国庫負担とすることも決まった。
その上、露米会社の交易品を、二艘の戦艦に搭載する許可も付け加えられた。
レザノフの政治的手腕の水際だった見事さを明かす諸決定であった。
露米会社自体は、国家と企業との境界線が交叉状にからみあった官民癒着の典型的な国策会社だったが、侍従であると共に露米会社総支配人でもあるというレザノフの立場もそれを表している。
こうして、世界周航計画は初めの露米会社単独の事業から、ロシア政府と露米会社の共同事業へといつしか変貌してしまったのである。