2014年2月4日
露寇(ろこう)事件始末(4-11) 荻野鐵人
その一方、クルウゼンシュテルンは、探検隊長を解任され、ナデジダ号船長としての航海上の責任者に格下げとなった。
無論、露米会社との契約も破棄され、政府からの俸給のみが支払われる一艦上勤務者の地位に引き戻された。
したがって、面子をまったくつぶされた観のあるクルウゼンシュテルンとリシャンスキーの両船長が、にわか隊長のレザノフに対して憤懣の思いを募らせたのも無理からぬ点があったのである。
享和三年(1803)八月七日(陰暦六月二十日)、若宮丸漂民五人を加えて七十六名を乗せたナデジダ号、五十四名のネヴァ号の二軍艦は、クロンシュタットを出帆した。
途中、コペンハーゲンに寄港、補給物資を積み込むと、北海を西走する。
ドーバー海峡では、フランス船と見誤った英国船の砲撃を受けた。
艦長のレザノフは、英国軍艦に移乗して抗議するとそのままロンドンまで出向いてしまったので、ナデジダ号はイングランド南端部のファルマスに入港しレザノブの帰りを待った。
今後のロシア船の世界一周航海は、世界の海上権を掌中に収める英国の保証なしには目的達成が望めなかった。
レザノフは得意の外交的手腕を発揮したのだろう、その後、ナデジダ号は外交的トラブルには巻き込まれ無かった。
十月五日、ファルマスを出帆し、二船は別行動をとることになり、南米ブラジルのサンタ・カタリナ島を集結地ときめ大西洋を横断した。
サンタ・カタリナ島出帆後、二船はまた相別れ、サンドイッチ諸島(ハワイ諸島)での再会を約した。
五月六日(文化元年三月二十七日)、ナデジダ号とネヴァ号は、マルキーズ諸島のヌクヒヴァ島に寄港し、薪水を補給した。
五月十七日、二船はヌクヒヴァ島を出帆し、六月七日ハワイ諸島のオアフ島に着く。
六月十日、ナデジダ号はカムチャッカをめざし、ネヴァ号はカジヤク島に向かい、両船は袂をわかった。
七月十五日(陰暦六月九日)、ナデジダ号は北方ロシア領の要津、カムチャッカ半島南端部のペテロパヴロフスクに入港した。
ナデジダ号が未だペテロパヴロフスクで停泊中だった八月八日(陰暦七月三日)と八月十一日(陰暦七月六日)に、ジャワのバタビヤを発ったオランダ商船のマリヤ・スサンナ号とヘジナ・アントアネット号が、相次いで長崎へ入港している。
出島の商館長ドーフは両商船の報知によって、前年の五月にアミアン和平条約が決裂したことと、遣日修好使節の乗るロシア軍艦が近々に長崎へ来航することを知った。
当時、オランダはナポレオン軍の占領下にあり、英仏戦争の再開はアジアのオランダ領植民地が英国海軍の攻撃にさらされることを意味していた。
商館長は、ロシア船来航のみを、秘密文書にしたためて、早急に長崎奉行所へ通達した。
したがって、このオランダ側の急報によって、ナデジダ号の長崎来航は長崎奉行所はもとより、江戸の幕府当局も事前に察知しており、期日の点からだけいえばその対策を講じる時間的余裕もあったことになる。
- 共立荻野病院 院長 荻野鐵人