2014年2月5日
露寇(ろこう)事件始末(4-12) 荻野鐵人
1804年(文化元年入月三日)早朝、ナデジダ号はペトロパブロフスクを出帆し、一路、長崎をめざすことになる。
日本近海は、すでに台風の季節に入ろうとしていた。
出港後すぐ悪天候に見まわれるが、千島列島中央部を横切って太平洋へ出て南下する。
やがて八丈島を北に望む海域に至り、西方へと進路を変えた。
九月二十八日(陰暦八月二十五日)、薩摩の大隅半島を視界にとらえたが、荒天のゆえ沖へ流され、翌日より台風の来襲に会う。
難船状態を辛くも脱するが、船体は相当な損傷を受けた。
台風の去った三十日夕刻、北上するとふたたび陸地の山並が視界に現れた。
大隅半島と屋久島の中間付近に達しているようだ。
海岸線に近付くと各所に彩しい焚火(たきび)がともされ、異国船の到来に日本人たちは大騒ぎしている様子だった。
日本人漂民は、ロシア人に八丈島や薩摩の山々を指して「あれは何という山か」と聞かれるが答えられない。
自分の国の土地も知らないのかと嘲笑されるが、無理もない。
主として仙台藩の蔵米を江戸に運ぶ穀船だった若宮丸は江戸湾に入る場合、房総半島南端の野島崎付近でいったんは遠く沖合へ出て、次ぎに伊豆の下田をめざす進路をとり、湾内へと進む。
したがって、大島や三宅島を目にすることはあっても、八丈島を望むことはない。
江戸と仙台間の運行の際、もし八丈島を視界に収めたとすれば操船を誤って南下しすぎたか、あるいは、いわゆる大西風に吹き流され文字通り漂流の危険に遭遇したか、そのいずれかの場合に限られるからである。
また、江戸から西へ向かう太平洋航路は菱垣廻船や樽廻船さらには、尾張、伊勢、紀州らの各廻船が、ひしめきあって運行しており石巻廻船が参入できる余地はなかった。
まして、西南の果ての薩摩の地形など若宮丸漂民が知るよしもなかった。
若宮丸漂民たちが衝撃を受けうちのめされたのは、陸地のまったく見えない大海原を平気で目的地に航行できるロシア船の航海技術のすばらしさについてであった。
天文航法を知らなかった近世期の日本の廻船は、沿岸航法にひたすら頼るしかなかったのである。