2014年2月7日
露寇(ろこう)事件始末(4-14) 荻野鐵人
九月十二日、長崎奉行は、ナデジダ号に検使を派し、「使節レザノフに対し、海外の船新(あらた)に渡来すとも容(い)れざる国法なり、されども先に信牌を与へしをもて、渡来の意趣を官に達すべし、暫時滞船あるべき旨を諭」(「通航一覧」巻之二百七十六)した。
また、長崎湾外に停泊中のナデジダ号を風波の難を回避させるため、湾内入口の神崎付近まで曳航することを命じた。
同時に大村藩、肥前藩、福岡藩に動員をかけ、警備の充実を図る。
最終的な警備人員は二万四千九百三十人、警備船三百余艘、加子(水主)六千人にのぼったと記録されている。
レザノフは、若宮丸漂民の日本側への引渡しを拒否した。
江戸への参府に四漂民を同伴するというのが、レザノブの希望だったからである。
ともあれ、幕府の対応は遅れに遅れる。
その後、暫時滞船が越年を迎え六ヵ月間にも及んだのである。
そして、こうした日露間の外交交渉の最中、いわばロシア側の人質とされた境遇こそが漂民たちに、のちに大きな悲惨事を強いることになるのである。
江戸からの下知状が届くまで応接は禁じられていたとはいえ、十二年ぶりに故国に生還した人間への同情心も働き、係りの役人、通事、医師、警備の足軽、食料や野菜を運び込む町民たちも、数奇な異国体験者への好奇心もあったので心の通った親しい挨拶が交わされていたに違いない。
ところが十一月二十四日に着いた下知状には、若宮丸漂民に対する冷酷な処遇への指示があった。
「漂流人共えは、決して応対等これ無く、咄合(はなしあ)ひなど仕る儀、堅く相禁じ候様、致さるべく候」
翌二十五日江戸よりの下知に従い、長崎奉行は町年寄を呼びだし、
「日本人漂流人えも、仮にも言葉を替(かわ)せ候事、決してこれあるまじく候」と厳命した。
日本人側の態度は一夜にして一変し、もの言わぬ冷たい仮面の表情と化してしまったのである。
事情の分からない漂民たちが疑心暗鬼し、絶望感へと陥ったのも当然だろう。
十二月四日、レザノフよりの宮古島漂民の儀平が病気とのことで長崎奉行所御用医師が往診を続けていた十七日、同郷の漂民多十郎が突然に狂気のあまり剃刀で喉(のど)を切るという自殺の挙に出た。
多十郎の自殺未遂は日露双方に衝撃を与えたが、とりわけレザノブには激甚な打撃だったようだ。