2014年2月10日
露寇(ろこう)事件始末(4-16) 荻野鐵人
ロシア側の要求をことごとくはねつけ、寛政五年時の信牌をも召上げたことで、長崎奉行所側は勝利の満足感にしたった。
幕閣もそうであったことは、帰府した見付遠山景晋(かげくに)に金五枚、支配勘定松田伊右衛門に銀二十枚、同村田林右衛門に銀五枚が下賜されたことでも知れよう。
しかし、翌文化三年(1806年)秋、樺太の日本人居留地を、ロシア軍艦が襲撃する事件が発生し、幕府は、してやったりのしたり顔に、突然の殴打を食らった形となり、周章狼狽することになる。
もっとも、ナデジダ号の退去を長崎奉行所の日本人よりも喜んだ者たちがいた。
それは、出島のオランダ人たち、わけても、商館長ドゥーフは欣喜雀躍(きんきじゃやく)した。
「阿蘭陀の加比丹(ドウーフ)此度魯西亜(ロシア)出帆の翌々日、阿蘭陀通詞をまねき、阿蘭陀人は阿蘭陀人の卓、日本人へは日本料理にて、大饗をせしといふ。夜八ツ時{午前二時}頃まで、物くひ、酒のみ、歌うたひ、裸体なりてさはぎし也。是は魯西亜交易の御免なきを悦びて、祝ひの心とみえたり」
ドゥーフは文化十四年(1817年)まで長崎に滞在し、この間に、蘭日辞典を編むなど、多くの事績を残し、名商館長とまで呼ばれるに至るが、この遣日使節問題こそ、ドゥーフの外交官としての抜群の才能を示した最初の大殊勲事であった。
ロシア皇帝の国書を携え、礼を尽くして遠路来航した修好使節に対して、遠国(おんごく)奉行にすぎない長崎奉行や、監察職でもあり、正規の権限をもつ使者とはみなせない目付を派して応接させ、しかも、門前払いにした幕府の外交交渉のやり方については、これを批判する声が、識者の一部には強くあった。
とりわけ辛辣な痛罵(つうば)を加えたのは、江戸っ子町民の蘭学の徒だった司馬江漢(しばこうかん)であった。晩年期の文化七、八年頃に著した随筆集「春波楼(しゅんばろう)筆記」の中でこう語っている。
「肥前長崎の津に魯西亜の舶入る。使者の者、国老レサノット、女帝アレキサンデルの印、その書翰に曰く、『吾国は貴国と隔たる遠しと雖(いえど)も、属国貴地に近し。故に隣国のよしみをなし、年々聘使(へいし)を以て交易をなさんとす。大日本大王の膝下(しっか)に拝礼をなす』とあり。然るに、魯西亜の使者を、半年長崎に留め上陸を免さず。其の上彼等が意に戻り、且其の返答甚だ失敬不遜。魯西亜は北方の辺地不毛の土にして、下国なりと羅も、大国にして属国も亦(また)多し。一概に夷狭(いてき)のふるまひ非礼ならずや。レサノットは彼の国の王の使者なり。王は吾国の王と異ならんや。夫れ礼は人道教示の肇(はじめ)とす。之を譬(たと)へば位官正しきに、裸になりて立つが如し。必ずや吾国を、彼等禽獣(きんじゅう)の如く思ふなるべし。鳴呼慨(なげかわ)しい哉」
ただ、この司馬江漢のしごく正論風の批判は、世間に広く知られたわけではない。
このような幕政糾弾を公けの形で発言すればたちまち筆禍にあったからだ。
その意味では、江漢の私的独白、呪詛(じゅそ)に近いものだったといえよう。
悲惨な筆禍としては、文化六年(1809)に大坂の講談師南豊が、魯西亜が蝦夷に来冠したことを「北海奇談」に書いて、引回しの上獄門となっている。