2014年2月11日
露寇(ろこう)事件始末(4-17) 荻野鐵人
1805年4月18日(文化二年三月十九日)長崎を出港したナデジダ号は、樺太アニワ湾に到達しクシュンコタンにも上陸し、日本の商船祥瑞丸の船長や松前藩の出先番所の出張役人とも、レザノフは日本語で親しく面接し、樺太島の守備が甚だ薄弱であることを探知し、その侵略の容易であることを看破した。
ロシア人が樺太の地を踏んだ最初である。
中国は金、元の時代に樺太の占有権を歴史に刻んでいる。
清朝の初期には黒龍江(アムール川)中流の普禄(プル)に清朝の仮政府が設けられ、樺太や黒龍江一帯の諸民族は、その地まで赴いて朝貢の礼をとり、交易活動も盛んに行われた。
ただ、清朝は、樺太の宗主権を朝貢の形で保つにとどめ、遠境の地でもあったことから、統治するまでには至らなかった。
日本が樺太との関係をもつのは寛永元年(1624年)のことで、松前藩が藩士を派して越年させ、踏査にあたらせたのがその始まりである。
寛政元年(1789)に、同地のアイヌ人が、対岸の山丹人による暴行を訴えたことから、松前藩では、白主と久春古丹に番所を設置することになった。
いずれにしても日本の勢力範囲は、南樺太に限られていた。
ロシアの樺太への進出が遅れたのは、清朝隆盛期の康熈帝時代に、黒龍江流域にまで迫ったコサック兵団が、清軍に撃退され、1689年(康煕(こうき)二十八年・元禄二年)、清露両国はネルチンスク条約を結び、黒龍江をもって国境とすることが定められたからであった。
南下を阻止されたロシアは、東進の道を選ぶ。
カムチャッカ半島征服後、アレウト列島を経て北米大陸に達し、アラスカを掌中に収める。
その一方で、千島列島を南下してウルップ島にまで進出、日本との対峙状態が生じることになるわけである。